Home日本私立大学協会私学高等教育研究所教育学術新聞加盟大学専用サイト
アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.32
国を支える学術研究−費用は誰が負担すべきか

主幹 喜多村和之

 学術研究の進歩発展に要する経費、とくに大学における研究は誰が受益者であり、誰が負担すべきなのか。これは私立大学が直面している、すぐれて現代的な問いである。
 去る4月17日に早稲田大学で「私立大学における研究費をどう確保するか」というテーマでセミナーが開かれた。学費収入に主な財源を依存している多くの(殆どのといってもよい)日本の私大にとって、研究費の調達は死活の問題であり、とりわけ研究費の多寡が研究の成果に関連の深い理系の研究者、私学団体、政策・行政関係者、マスコミ等々のひろい関心をひき、50人を越す参加者が夜遅くまで熱心に議論をたたかわせた。
 発表者のひとりである竹内 淳同大理工学部助教授は、各種のデータを駆使して、とくに文部科学省の従来の科学研究費の配分の方法では大学の研究費における官民格差がきわめて大きくなり、そのことが日本の大学の研究構造にも影響し、国の有限な研究資源の有効活用を妨げ、ひいては私大の研究成果の低下や国内の貴重な人的資源の損失をもたらしている。したがって国立大学への研究投資偏重を温存している明治以来の配分方法は再検討されるべきであり、私学関係者も積極的に研究費確保の問題に発言すべきだとの問題提起をおこなった。
 コメンテーターとして登場した菊川 治同大学外連携担当部長は、豊富な行政経験とデータをもとに、文部科学省の立場からは科学研究費はもともと競争的な研究資金であり、その配分は公正に運用してきていて、私大軽視とは言えず、むしろ私大研究者の側からの申請数が国立に比べて圧倒的に少ないなどの現実を改善すべきである。私学の側からももっと積極的な研究意欲が示されないかぎり、たんに国立から私立への悪平等的配分を主張しているととられるおそれがあり、大学の研究費確保に対する国民の支持を得られにくくなるのではないかとの、竹内氏への反論という形での問題提起をおこなった。
 両者の指摘に対しては、そもそも現在の私大財政の状態で国立大学や諸外国の大学なみの研究大学など成立可能なのか、そのためには授業料を何倍にも値上げしなければならず非現実的である、また私大としては研究と同様に教育を重視すべきであり、国立大学との様々な格差や条件の違いをそのままにしておいて、私大に対等な競争を迫られても不可能ではないか、さらにはモノトリ主義ではなく向こうからよろこんで資金を提供したいといわせるだけの質の高い研究をわれわれは創造すべきではないか、等々のさまざまな議論が百出した。
 ここでの議論には、科学研究費の配分という例をたんに国私格差ないし差別といった問題に矮小化するのではなく、国全体の実力を高め、国際的にも競争できる大学を日本で創造していくためにはどこに問題があり、どうしたらよいのかという、基本的かつマクロな問題意識が貫かれていたことに共感を覚えた。同時に国が主導的に国立大学に国の資源を集中投資していくという明治以来の近代化政策の延長は、21世紀の日本の学術研究の成長にとってはすでにそぐわなくなっており、従来型の国の資源配分方式は日本経済の構造と同様に新しい変革を求められているのではないか、という建設的な提言を指向していることにも大いに共鳴させられた。
 これまで国立大学や研究機関に勤務し、科学研究費の恩恵にたびたび与ってきた者のひとりとしては、先人たちや学術界、政治行政関係者が長年にわたって発展させてこられた科学研究費の重要性や有効性は、いくら強調してもし過ぎることはないと考える。ただ、実態としては、歴史的には科学研究費は国立大学の教官積算校費とは別につくられたプロジェクト研究費であり、私大の研究者にもひろまってくるようになったのは後になってからのことである。それだけに私大の教員の側の科学研究費に対する意識や取り組みが違ってくるのは止むを得ないところがある。国立大学のプロジェクト研究は実質的に科学研究費によって推進され、研究成果の蓄積にも多大の貢献をしてきた。その審査方法や基準、予算額も関係者の努力で年々向上・改善されてきたことも事実である。
 しかしながら、現行制度や方法のもとで、現実には国立大学に偏重された配分結果になっている、という事実は再検討されるべきではないか。私大からは申請応募数が少ないというのも事実であり、私大からもっと積極的な応募がなされるべきである。しかしその理由の一端は、私大の研究者には暗黙のうちに科学研究費は国立機関のもので、私大には不利だとの思いこみが蔓延していたり、これまで学内での研究費調達の方途もあったことが科学研究費の確保を弱めてきた面も否定できない。また審査が公正におこなわれているとしても、審査員が圧倒的に国立大学関係者が占めるというのも事実であり、竹内氏が提唱しているように、アメリカのように学会推薦ではなく覆面で審査員を選出するという方法も考えられるであろう。
 しかし肝心なことは、そもそも学術研究は誰が受益者であり、誰が負担すべきかという基本的な問題を改めて考えてみる必要があるということである。もし研究が国民全体を裨益させるものと認められのなら、その経費は主として公費によって負担されるべきであろう。そうだとすれば、国の研究費は国の機関だけのものではなく、官民共通の財源だということになる。科学研究費は研究の企画、実績の質によって得られるべきメリットクラッティックな資金であるから、その受給対象は設置者の違いにはかかわりがない。
 もし研究費が国の発展を支える公的財源であるとするなら、研究費までも学生の授業料収入で賄うのは筋違いではないかという議論もある。親も保護者も学費はまず第一義的には子供の教育のために支払っているのであって、教員の研究費は別の財源から確保すべきでないかという考え方も成り立つ。現実にその経営を学生納付金収入に圧倒的に依存している私大の場合、この厳しい経済状況下で研究費まで家計負担に頼ることは不可能であるのみならず非現実的である。
 しかしほかに有力な財源が見出せないとすれば、研究費は公的資金から確保する以外に方法がない。とくに巨大な経費を要する研究プロジェクトは私大の負担能力をはるかに超えるものであるから、なおさら公費による適切な援助に依存せざるをえないのが現実である。
 国公私を問わず日本の優れた研究人材を掘り起こし、日本の明日をささえる研究費の確保のための最良の策を見いだすために、行政、学界、国民全般から、建設的な議論がまきおこることを期待する。

Page Top