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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.31
重視すべきは新入生−学部教育の充実強化が基本

主幹 喜多村和之

 新年度を迎えて、これまで静かだったキャンパスにはいっせいに学生たちが登校し、活気を呈している。なんと言っても学園は学生の存在があってこそ大学らしくなる。とりわけ入学してきたばかりの新入生は、大学にとって無限の可能性を秘めた存在であり、その学校の未来を担う期待の星でもある。彼らは日本に1000校をこえる大学・短大のなかから、たった1校の大学を選んで入学してきてくれた貴重な青年たちだ。そして新入生自身もまた、新しい未知の環境に緊張と期待と不安の入り混じった複雑な心理を抱いていることであろう。この新人たちにそのもてる可能性を精一杯花開いてもらうことは、かれらを受け入れた大学の責務である。
 多くの大学では、最近は入学式からオリエンテーション行事にはじまって、フレッシュマンセミナーや合宿など、盛りだくさんのプログラムが、活発に行われている。中等教育から高等教育への移行にあたって、その新しい環境への転換をできるだけスムースに可能にし、大学の教育目的や生活上の経験に早くなじんでもらうためにも、入学したての時期にこうした機会を提供することは必須かつ有効であろう。どこの世界でも新人教育は一番力を入れて取り組んでいる。
 かつて大学は、この種の新入生へのオリエンテーションにはあまり熱心とは言えなかった。大学は当然学生には周知のものという前提に立って、大学とはどういうところかという説明も案内もなく、入学式からいきなり授業になることが多かった。それは、入学してきた学生は当然学習目的も明確であるとする、エリート主義時代の観念にもとづいている。そのころの、およそ「不親切」だった時代とくらべると、隔世の感がある。つまりそれだけ新入生に対する配慮が必要になるような時代になったし、そうしたガイダンスなしでは大学生活に適応させることができにくくなってきた時代、すなわち、だれもが入学してくる普通の人のための高等教育の時代になったとも言えるだろう。
 ただこうした行事や取組がいくら充実してきていても、肝心なのは一般の授業が新入生に十分な配慮がなされていなければ、せっかくのオリエンテーションの努力は十分活かされないのではなかろうか。張り切って受けた最初の講義に落胆し、以後しばらく立ち上がれなかったり、最初のつまずきが在学中ずっと尾を引くことがある。それだけに最初の新入生との対面である初日の授業の重要性は、いかに強調してもし過ぎることはない。教授法の基本は、初日の学生との対面に最重点を置いている。
 他方、高等教育は国公私に限らず大学院重視の方向に進みつつある。政府は大学院の強化を謳い、学部課程の大学は修士課程を設置しようとし、修士課程をもつ大学院は博士課程の設置に懸命となる。国立大学でも数年前には大学院重点化政策のもとでの昇格運動が展開され、昇格に成功した大学では教官の本拠が学部から大学院研究科へと移され、あっという間に「◯◯大学院教授」なる法令にも定められていない肩書きが増えた(所属が大学院に移行したからといって「◯◯大学教授」であることにかわりはないのに、ことさら大学院教授を名乗るのは不思議である)。大学院の充実そのものは学問の進歩にとって必須の条件ではあるが、この方向がもし学部課程の軽視という風潮をますます助長するようなことになるならば、大学教育全体の健全な発展のためには甚だ問題である。
 もともと大学院は少人数の学生を対象とするから、特に私立大学にとっては経営上もコストが高くつき、採算がとれにくい。教員にも大学院担当資格をもつ学者を揃えねばならず、施設設備その他の条件も学部よりは遙かに厳しい。強力な大学院をもつことは私大の威信向上や優秀な学生を惹き付けるためにも有効な手段だが、それだけに財政上は学部課程の予算や教育にしわ寄せがいく傾向も否めない。そのうえ大学院を担当する教員には負担が多くかかったり、“マル合”教授を高給で招いたりする必要がある。
 さらに問題なのは大学院生の定員を充たさなければならず、日本人学生のみならず留学生や社会人学生にも十分な教育環境を備えるためには、さらに教員の負担や施設設備の費用がかかる、という結果にもなりかねない。いくら大学院ブームだといっても大学院の充実は一朝一夕では実現できないのである。
 思うに日本の高等教育は、一種の階層的価値観に支配されているのではないか。短大よりは4年制大学が、大学よりは大学院が、一般教育よりは専門教育が(教養部よりは専門学部が)威信が高いといったヒエラルキー的意識によって、学部課程よりは大学院課程を重視するという風潮が蔓延しているのではないか。こういう価値観のもとでは、学生は一般教育を“パンキョウ”とよんで軽視し、教養部を担当する教員は専門学部の教員から重視されず、だれもが上の階梯としての大学院ばかりを目指すようになるのもやむを得ないだろう。
 だが大学を知の創造(研究)、伝達(教育)、応用(サービス)が三位一体となって相互に連結される統合的な循環システムと捉えるのならば、学部教育よりは大学院を重視するといった考えでは、大学全体の機能をバランスよく充実させることはできないのではないか。大学院教育を重視したいというのならば、まず学部課程の教育の充実がなければならない。学部教育は水準が低すぎるから、大学院を充実するという論理は、不良債権や借金を後世に先送りするのと同じで、問題を解決することにつながらないだろう。
 かつてケンブリッジ大学の学長をつとめた故エリック・アシュビー卿は、大学はだれのためにあるかといえば、第一義的には教職員のためではなくて学生のための機関だと喝破した。それは大学とは第一義的には教育のための機関だということにほかならない。さらにアシュビー卿は、学生のうちで大学が重視しなければならない存在は、実は大学院生ではなくて学部課程の学生であるとし、その学部生のなかでも最も大切にしなければならないのは新入生(フレッシュマン)だ、と言っている。
 もしこの言に従うとすれば、教育よりは研究を指向し、一般教育よりは専門教育を、学部課程よりは大学院を重視し、学部生よりは院生を大事にしようとしている現代のわれわれの多くの大学は、本来の大学教育の在り方からはかけはなれた方向へと行こうとしていると言えるのではないか。

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