Home日本私立大学協会私学高等教育研究所教育学術新聞加盟大学専用サイト
教育学術オンライン

平成26年2月 第2551号(2月5日)

高等教育の明日
 われら大学人 〈43〉
 「走れコウタロー」がヒット 現在、白鴎大学教授で教壇に
 山本コウタローさん(65)

 我ら団塊世代にとって、輝いていた青の時代のヒーローだった。一橋大学在学中から「ソルティー・シュガー」を率いて活躍、「走れコウタロー」で日本レコード大賞新人賞を受賞。大学卒業後に結成したバンドでも「岬めぐり」がヒット。山本厚太郎(山本コウタロー)さんは、白鴎大学(奥島孝康学長、栃木県小山市)教授として英国留学などで学んだ地球環境問題などを教えている。平和、男女共同参画、人権といった問題にも関心が強く、全国で講演活動を行う一方、歌手やタレント活動も続けている。コンサートでは、「走れコウタロー」、「岬めぐり」といった70年代フォークソングの名曲を歌っている。コウタロー人気は衰えていない。そんなマルチな大学人である山本さんを訪ね、少年時代、ヒーローだった時代を振り返ってもらい、現代(いま)についても尋ねた。

可能性にチャレンジせよ
歌手、講演でも活躍 講義は手を抜かず全力で

 山本さんは、1948年9月、東京都千代田区に生まれた。千代田区立番町小学校、同麹町中学校、東京都立日比谷高等学校と都会派エリートの道をまっすぐに歩んだ。どんな子どもだったのか?
 「父はサラリーマンで、自分も勤め人になるのかなと思っていた。教育パパ的で中学1年で英語の成績が悪かった時は殴られた。中学2年になって英語の成績が上がった。担当の内藤先生から『1年の時は駄目だったけど、君はできると思っていた』と褒められ、自分もやればできると自信を持った」
 中学3年の時、フォークソングのバンドを作り文化祭で歌ったが評判はイマイチだった。高校2年から本格的に始めた。加入していたサッカー部をやめて音楽にのめり込み、大学は1浪して上智大学経済学部に進んだ。
 「浪人中に学んだことは多い。将来、どう生きようかと考え、たくさんの本を読んだ。音楽を仕事にする自由業に憧れた。同時に、大学の先生もいいな、という気持が頭の隅にあり、上智(大学)に入ったが、東大を目指すことにした」
 69年、東大紛争による東大入試中止で、一橋大学社会学部に進む。大学1年のとき、日比谷高校のバンドの仲間とフォークバンド「ソルティーシュガー」を結成。2年生(70年)のとき、「走れコウタロー」がヒット。ラジオのパーソナリティーの仕事がきた。
 「勉強好きではなく、興味のあることに集中して興味のないことはやらなかった」。大学では、著名な社会心理学者、南博教授のゼミに入った。卒業を前に、南教授から「卒業には卒論が必要だが、君は準備をしているのか」と問われた。
 師弟の温かな会話。「歌ばかり歌っていたので…」、「そうか、山本君、作った歌で一番いい歌を歌え、それを卒論としよう」、「歌を聞いてもらうのは嬉しいですが、卒論を書かせてください」。弟子は模範解答で締めた。
 卒論は「誰も知らなかったよしだたくろう」。吉田拓郎というスーパースターと彼の誕生した時代を編んだ。「南先生は、心の師です。授業の進め方、若者の人格を尊重し大人扱いにしてくれました。先生からは非常に多くのことを学びました」
 大学は4年で卒業した。ラジオのパーソナリティーの仕事を続けていた。「同期で就職した連中より稼ぎが悪かった。とにかく安定して、きちんと稼ぐ手立てがいる」と考え、山本コウタローとウィークエンドを結成。その1曲目の「岬めぐり」(74年)がヒット。「ラッキーでした」
 78年、30歳になった。「30歳以上の人生を考えていなかった。バンドを含めて人生を再設計しなくてはと考え、それにはアメリカに行って人生をリセットするのがいい」と渡米、約1年半アメリカで暮らした。
 役立った米国での体験
 「アメリカの人は庶民も芸術家、表現者も『タイムフォーライフ』で人生は楽しまなくちゃと人生をエンジョイしていました。自分は歯を食いしばりすぎたかなと思い直しました」。アメリカでの体験は、帰国後の生活に影響を与えた。
 「それまで、ぼくは歌で表現して来ましたが、表現はどんな方法でも、楽しいのなら、どんな表現でもいい」と思い至った。テレビの司会をやり、情報番組のコメンテーターを引き受け、若者論やトレンドについて積極的に発言した。
 86年、白鴎大学講師に就任。どういう経緯で?「白鴎大設立の時、ラジオのCMに出たのがきっかけです。その後、新入生に向けて講演をした際、理事長先生から『本学で教えてくれないか』と頼まれました」
 95年、環境学を学ぶ目的で英国へ。70年代に大気汚染を皮肉った『ハナゲの唄』という歌を出した。ヒットはしなかったが、公害に悩む住民から講演の依頼が来た。
 「公害被害のある現地を訪れると、見るのと聞くとは大違いで、この国の光と影、影の部分の悲惨さを目のあたりにしました。こうした経験から、公害問題ひいては地球環境問題がテーマのひとつになりました」
 99年、白鴎大学教授に就任。現在、社会学、地球環境問題などを教えている。一橋大社会学部の出である。「社会学はマスコミ論の延長線で、これまでの自分の経験してきたことを織り交ぜながら教えています」
 今の学生について。サッカーの試合を映像化するという話から入った。「情報過剰な時代に育ったせいか、物事には必ず答えがあるものと思い込んでいる。何もないところから何かを創ることに恐れや躊躇いがあって、進まなかった」
じっと待つのも大事
 この間、じっと待った。「そのうち元気な学生が『ぜひ、これをやりたい』といってきた。すると、他の学生も『おもしろい』『それをやろう』となって動き出した。自分たちで何をやってもいいんだ、つまり自分の可能性を見出す気持にさせれば、やる時はやるんです。待つのも大事と悟りました」
 教える立場になって、気を付けている点は?「ぼくは、毎年、同じテーマで教えていますが、学生は、1回しか講義を聞けません。音楽コンサートもそうです、ぼくは今日も明日も明後日も歌いますが、聞きに来る人は1回だけの人もいる。講義は1回1回全力投球で、手を抜かないことを心がけています」
 「自分に言い聞かせていることがある」と続けた。「常に新しい情報をインプットしておく。自分がワクワクすることを提供していく。今の学生は映像世代なので、教員の言葉より映像に興味が行くので映像を上手に使うようにしています」
 講演テーマ。地球環境問題は、自他共に認めるエコロジストとしてライフワークとして取り組んでいる。「ヒロシマ」など平和問題でも発言を続ける。男女共同参画は「まずお互いが自立して、分担しあい貢献しあうこと」と、その意義を語る。
 教育問題では、自分の子供時代と今の子供たちを取り巻く環境の違い、今と昔の親の違いを自身の体験から講演。「親は子供の味方・応援団、価値観の押し付けは要注意」と話す。団塊世代へセカンドライフの食・健康も提唱している。
 自然農法は、自ら実践する。84年から玄米自然食を実践。八八年から「自然農法」による野菜・穀物作りを西伊豆・西浦で始めた。近年、有機栽培等に対する関心も高まり、この分野での講演も多いそうだ。
 歌手活動。2005年、デビュー35周年を機に「ほぼウィークエンド」と人を食ったバンド名で音楽活動を開始。以来、定期的なライブ活動やジョイントコンサートを展開、テレビ出演の機会もある。
TBSの渡鬼にも出演
 08年、TBS系人気ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』にレギュラー出演。「渡鬼おやじバンド」の一員で、角野卓造演じる小島勇の友人役を演じた。「角野は麹町中学からの親友、彼も内藤先生から演技を褒められ演劇の道に進みました」
 取材の最後に、学生たちにエールを送った。「人間と社会の豊かさはイコールで、ともに可能性が広がることだと思うんです。大学は、出会いがあり、チャレンジできる場がたくさんあるところ。勉強でも、アルバイトでも、恋愛でも、何でもいい、可能性に思いっきりチャレンジしてほしい」。自身の来し方を重ね合わせているようだった。

やまもと・こうたろー  東京都千代田区出身。千代田区立番町小学校、同麹町中学校、東京都立日比谷高等学校から一橋大学社会学部に進む。芸名は山本コウタローだが、作曲や大学で教鞭をとるときは本名の山本厚太郎。現在、白鴎大学教授として社会学、地球環境問題などを講義するかたわら、団塊の世代へ提唱するセカンドライフの食・健康、男女共同参画、食・農の問題、教育問題、平和問題といった講演活動を行う。その一方、歌手、タレント活動も続けている。著書に、「誰も知らなかったよしだ拓郎」(1974年、八曜社刊)ほか多数。


Page Top