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教育学術オンライン

平成24年8月 第2494号(8月22日)

教育哲学会からの疑問
  大学教育部会「審議まとめ」を読んで

 この8月の中央教育審議会総会において、「未来を創出する大学教育の構築に向けて〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ〜」が文部科学大臣に答申される予定であるが、すでに全国各地の大学関係者から賛否の声が上がっている。同答申を教育哲学から眺めた時、どのような議論となるのか。教育哲学会から、金沢大学人間社会学域学校教育学類の松下良平教授、奈良女子大学文学部人間科学科の西村拓生教授、広島大学大学院教育学研究科の丸山恭司教授に寄稿して頂いた。(ただし、原稿依頼した時期の関係で基本的に「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ(審議まとめ)(3月26日付)」を元にした議論である))


教育の理念なき大学改革の危うさ


金沢大学人間社会学域学校教育学類教授 松下良平


 委員の多様な意見と文科省の方針の「すりあわせ」の結果であろうか、矛盾や不整合に満ちているばかりか、どこか滑稽でさえある。これが中教審大学教育部会「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力をはぐくむ大学へ(審議まとめ(案))」を一読しての率直な感想である。疑問は数々あるが、ここでは教育の理念に関するものに絞って、三つの問題点を指摘してみたい。
 (1)審議まとめでは、正解を身につけ導きだす能力の形成をめざした従来の教育から、「『答えのない問題』に「最善解」を導くことができる能力」の育成をめざす新しい大学教育への転換が説かれている。にもかかわらず、そこで前提とされているのはなぜか従来型の教育論である。
 工業化社会への適応を目的とする従来型の教育では、予め目標を定め、そこへの到達プロセスを分析・研究し、それを踏まえて設計された計画案と教育方法・技術に従って学習者を目標に導こうとする。よりよき教育を追求するために、目標を客観化し、そこへのプロセスを明確化・明細化した上で、実行とその評価を通じて目標に対するさらに適切なプロセス・手段を開発していこうとする。製品づくりのアナロジーで、人づくりも捉えられているのだ。
 それに対し、正解を予め想定できない未知の問題が次々と生じるポスト工業化の社会では、人びとが自ら問題を察知し、それを自分の問題として引き受け、問題解決のための手段や方法を自ら創意工夫しながら、粘り強く問題を追究することが必要になる。そのような社会を生きる人びとに必要なのは、状況の変化を鋭く見抜き、そこに自らコミットしようとする野生の感性や体勢、および未知の状況に出会っても何とか対処していける高度な知的道具である。そこでは、未知の状況と格闘するという厳しい訓練の中で専門的かつ汎用性の高い知的道具(教養など)を身につけ、状況全体の中で自己の判断とその帰結を省察する経験を積み重ねていく教育が必要になる。もちろん、そのような個人の活動を他者との連携・協同活動に結びつけていくことも欠かせない。
 にもかかわらず、審議まとめには工業化社会の教育論の色が非常に濃い。おなじみの「工程表としての授業計画(シラバス)」や教育のスタンダードの設定とそれに基づく評価といった考え方は、20世紀初頭のアメリカで工場労働の科学的管理法の影響を受けて生まれた教育論の延長上にある。その教育論がなぜ今頃になって復権したのだろうか。
 一方、「能動的学修(アクティブ・ラーニング)」は一見ポスト工業化社会の教育をにおわせる。うまくやれば一定の成果を出せるだろう。しかし、「まとめ」に従うかぎりでは、双方向や非座学だけが「売り」の没知性的授業がはびこり、逆にアクティブな学びへ誘う講義が排除されかねない。教育の理念と教育への歴史的反省を欠いたままでは、能動的学修は1世紀ほど前の「新教育」の轍を踏むだけであろう。
 (2)ポスト工業化社会の教育論では学習者のあり方が大きな焦点になる。問題に没入すること、問題の関係者(探究共同体のメンバー、クライエント、被害者、等々)の声に耳を傾け、応答しようとすること(応答責任)、少なくともこれなしでは「学び続け、主体的に考える」ことはありえない。学びに自発的に時間を費やすこともないだろう。
 しかし審議まとめでは、学習者はいわばブラックボックスになっている。製品づくりのような教育論に従うとき、学習者は教師に対して受け身(没主体的)にならざるをえない。そのため、「主体的に考える力をはぐくむ」教育をまじめに受けるほどに学生は、与えられた課題をこなして、自らを「良質」「高品質」として承認・評価してもらうことにもっぱら関心を向けるようになろう。だが審議まとめは、学習者論不在のために、そのパラドクスをまったく自覚していない。
 今回の審議まとめでは「学修時間の増加・確保」の重要性が執拗に説かれているが、これもまた学習者論を欠いていることの裏返しだといえる。教育や学修の質を高め、学修時間を増やせば教育の成果は上がる、という審議まとめの説で思い出されるのは、約50年前にJ・キャロル(John B.Carroll)が発表した学校学習モデルである。キャロルは、@学習に必要な時間に対するA実際に費やされた時間によって学習の程度が決まると考えた。@とAを五つの要因に分け、授業の質の改善などによって@を減らし、学習者の意欲や集中力を高めるなどしてAを増やせばだれでも学習できると考え、「完全習得学習(mastery learning)」への道を拓いた。しかしこの理論でも、学習時間は、学習の成否を左右する五要因のうちの一つ(Aに関する一つ)にすぎない。その意味で審議まとめの説はあまりにも中途半端であるし、率直にいって粗雑すぎる。
 ちなみに、工業化社会における教育論の一つの典型といえるキャロル・モデルは、今日でも義務教育段階での基礎・基本の学習に関しては一定の有効性をもっていよう。しかし、なぜそれを批判的思考や創造的活動へ導く教育が必要な大学にも当てはめようとするのだろうか。完全習得学習を必要とする大学への配慮なのか。だがもしそうであれば、今度は「大学の機能別分化」への配慮はどこへいったのか。
 (3)審議まとめはなぜこうも支離滅裂なのか。結局のところ、「どうすれば大学がグローバル市場・国内市場で評価されるか」ばかりに関心が向いているからではなかろうか。教育の現実から離れたところで、大学の経営(大学教育という製品の管理)ばかりに目が向いているということだ。だからこそ工業化社会の古めかしい教育論が、合理的経営の論理と混同されて甦ってくるのだろう。また「学修時間の確保は、国際的な信頼の源泉として不可欠」(アメリカの流儀に従え)というのが本音だからこそ、学修時間をめぐる議論に多くの不首尾があっても気にならないのだろう。
 だが、大学教育という商品の「質保証」の基準を予め設定して、その基準を満たそうとするほどに、大学人はそのための証拠づくりに多大な労力を割かざるをえなくなる。しばしば本務の教育そっちのけで。そしてこの矛盾を解決しないかぎり、大学教育に未来はない。いま問われているのは、むしろ大学関係者の「主体的に考える力」なのである。
 かつての日本の大学は、教育の場としてはいろいろ問題があったとしても、少なくとも状況に臨機に応じようとする野生の本性や、問題に没入し、問題の関係者に応答しようとする姿勢を学生たちから奪おうとはしなかった。しかしながら、この審議まとめを含め、近年のような大学教育改革を推し進めていくと、学生の学習者としての根幹部分が根絶やしにされるおそれがある。皮肉にもこれまで以上に主体的に学ぶ姿勢が求められる時代に。
 中教審のまとめは大学教育の制度設計にかかわるのだから、教育の理念や学習者のあり方について議論されても困る、という反論があるかもしれない。けれども、この審議まとめは明らかにそのレベルの議論に大きく踏み込んでいる。それを避けたいのなら、答申はずっと簡潔にして、あとは大学教育現場の創意工夫に委ねるべきである。



大学改革の臨床性と公共性


奈良女子大学文学部人間科学科教授 西村拓生


 大学改革について教育哲学の研究者に発言が求められる時、何が期待されているのだろうか。世上、しばしば「哲学」に対しては、理念を指し示したり、あるいは常識を批判的に検討することが求められる。けれどもそのような「哲学」の言説は、ほとんど常に、非現実的な理想論として却下されもする。
 今、大学に対して、行政の審議会から改革の要請・要求が出されている。その状況について、さて、筆者は何を発言できるだろうか。何らかの「大学の理念」を提起して、それに立脚して、状況の外から批評を試みることも可能ではある。しかし近年、教育哲学の研究者たちがとりわけ意識していることの一つは、ある教育言説が如何なるポジションから語られているか、という視点である。かつて教育学は教育の現実や実践に対して、しばしばナイーブに理念を語っていた。そのとき教育の「あるべき姿」は、実践者にとっては外部から与えられるものだった。それに対して私たちは、学校という共同体の内部から教育の理念が生成する、新しい公共性のあり方(たとえば「学びの共同体」というような)を模索してきた。この発想が、大学教育を考える際にも活かされてならない理由はない。そこで筆者は、ここでは「大学」対「改革要請」という状況の内部から、敢えて語ってみることにしたい。
機能別分化の必然性と自発性
 「審議まとめ」全体を貫いている危機感には共鳴する。大学がこのままでよいと考えている大学人は多くはあるまい。と同時に、ここ20年以上続けられてきた改革が成功していると考える大学人も、ほとんどいないだろう。むしろ皮肉なことに、「改革」が試みられるほどに大学は緩慢な窒息死に近づきつつある、というのが私たちの実感である。何故そうなってしまうのか。その理由の一つは、今回の「審議まとめ」を含む従来の改革が、いわば臨床性を欠いているからだと筆者は考える。
 臨床性を欠く、とはどういうことか。高等教育がユニバーサル化した状況では、おそろしく幅広い高等教育機関が「大学」と呼称されている。それらに関して一律に改革を語ることは、ガンと水虫と神経症(いずれも病気ではある)の全てに有効な治療法を求めるような、およそ空虚な所業である。大学一般、という語り方は、もはや意味をなさない。それぞれの大学が社会の中で果たすべき役割や、そこで学ぶ学生に必要なことは、きわめて多様で個別的である。他ならぬ「この大学で、今、目の前の学生の状況から」発想する、というのが、ここで言う臨床性ということである。
 目の前の学生たちと真剣に向き合う限り、自らの大学にどのような役割が求められているのかを、まさに臨床的に考えざるを得ない。自ずと役割分担も生じてくるだろう。だが、今回の「審議まとめ」も引き続き前提としている平成17年の「将来像答申」以来の高等教育政策は、競争的資金というインセンティブを通じて、外圧によって「機能別分化」を誘導しようとするものである。その「改革」は、大学教員にとっては外部から要請された、あるいは強いられたものでしかない。「主体的に考える」ことを放棄した(せざるを得なかった)教師たちが、学生たちの「主体的に考える力を育成する」というのは、タチの悪い冗談である。
 改革の担い手は、理念的にも、現実主義的にも、あくまで大学の教員である。理念的というのは、上述のような教育の公共性をめぐる議論に照らして、ということである。そもそも大学が「学びの共同体」であり得ないとしたら、いったい他のどこでそれが可能だろうか。また、現実主義的というのは、改革の最前線で頑張るべき当事者の士気を外圧によって低下させるようなやり方は、たとえそれがいくぶんかの合理性をもつとしても、組織論的・経営論的に愚劣である、という意味である。
システム化と学びの喜び
 臨床性の欠如ということについて、もう一つ考えたいのは、「学士課程教育の質的転換」のため、として示されている諸々の方策の妥当性である。今回の「審議まとめ」に限らず、「教育課程の体系化」、「成績評価の厳格化」、「学修成果の把握」といったことが近年、いっそう強調されている。総じて、大学教育を「個々の教員の属人的な取組から大学が組織的に提供する体系立ったものへと」システム化することが求められている。そこでは「主体的に考える力」が掲げられ、学びの「質」が問われてはいるものの、それらの「力」や「質」は、あくまで計量的に把握され、方法的に増強され、システム的に「保証」することが可能なものとして捉えられている。たしかに、そうでなければ「改革サイクル」と称されているPDCAサイクルには乗らないだろう。だが、その前提となっている学習観、教育観、人間観そのものは、一かけらも問いに付されてはいない。さらに、形成されるべき「力」や「質」が如何なるものであるかについても、この「審議まとめ」では一切考えられていない。拠り所は、ひたすら「企業や社会」のニーズである。
 これら、現今の改革要請の暗黙の前提となっている原理について全面的に議論する紙幅はここではない。ただ、考えておきたいのは、それが、大学教員が日頃行っている教育の営みに相応しいものか、という問題である。私たちは目の前の学生たちに対して、企業の品質管理のように、彼らの能力を如何に効率的に増強するか、と考えて向き合っているのだろうか。それもあるかもしれない。しかし、それだけではない。自分が学び、考えてきたことを授業で語り、それが学生にも問いを喚起し、何かが伝わった、何かがそこに生み出された、と感じる瞬間がある。プラトンなら、真理が火花のように飛び移る、と言ったであろう、そういう瞬間。そこにあるのは、もはや有用性や功利性を離れた、いわば純粋な学びの喜びである。
 多くの大学人は、この喜びのために研究をしている。その喜びを学生にも伝えたいと願って教育をしている。そして、それがうまく伝わらないと感じたときには、教育方法の工夫も行うだろう。「方法」はそのためのものであり、本来、臨床的で「属人的」なものなのである。―いや、それはフンボルト的な過去の大学の理念であって、ユニバーサル化した現状にとっては、もはや非現実的である、という議論もあるかもしれない。だが、「研究後継者養成よりも大多数を占めるそれ以外の」学士課程の学生と教師にとっても、そのような学びの喜びは、やはり大学における教育の原基である。それを顧慮せずに、組織的に方法化され、計量的に評価され、それに応じてインセンティブが与えられるシステムによって「主体的」な学びが起動すると考えるならば、そのような想定の方がむしろ非現実的である。学びの喜びを欠いては、学修時間だって伸びはしないだろう。
 以上は、大学教育の一実践者としての感懐である。教育哲学の研究者だからといって、それに特権的な意味があるわけではない。と同時に、しかし、私自身のそれも含めた大学人の意見や主張が、それぞれの実践の場で臨床的に、かつ公共的な討議に開かれることを通じて、初めて「改革」は可能になる、と筆者は考えている。出発点はそこしかない―というのは、やはり過去20年間の学会での議論を経てきた教育哲学研究者ならではの見解ではあるのだが…。



「主体的な学び」とは何か


広島大学大学院教育学研究科教授 丸山恭司


 日本の大学生は勉強しない。そう語られて久しい。私が大学生だった30年前を思い返してみても、確かに雀荘やパチンコに通う大学生が私の周りには大勢いたし、サークル活動やアルバイトが生活の中心となっている学生も少なからずいた。その一方で、面白くもない授業に出るより自分の学びたいことをしたいからと、授業はほどほどにして図書館にこもる者も、自主勉強会に力を入れる者もいた。
 現在、大学の教員となって留学生向けの授業をいくつか担当しているが、アジア諸国から来た留学生も欧米諸国から来た留学生も、日本人学生は勉強しないと口を揃えて言う。日本人学生向けの授業における欠席、遅刻、内職、居眠り、スマートフォン利用の様子を見ていると、確かに学生の授業に向き合う態度はゆるい。しかし、そうした態度が授業で許容されている実態がある。学生はどのように授業に参加するかを、教師の顔色をうかがいながら主体的に選択しているようにさえ思える。
 30年前も今も、主体的に学ぶ大学生はいるに違いない。だからと言って、現状に改善の余地がないことにはならない。大学への進学率が30%台であった頃と、50%を超える現在とを同じように語ることはできない。学習習慣を身につけることもないまま、大学に進学し卒業していく学生が以前より多いことは容易に想像できる。また、大卒を雇用する側も、企業内教育で人材育成のすべてをまかなう余裕が以前ほどはなくなり、「社会人基礎力」などと言って大学側に応分の負担を求めてきている現実がある。今や学生の主体性だけに任せていては事が立ち行かない状況にある。
 この度の中教審大学教育部会「審議まとめ」を私は大きな期待をもって読んだ。今後、学生は授業によって鍛えられるべきとの考えが、大学教員の間でもまた学生の間でも共有されるようになれば、先の問題は飛躍的に解消されるであろう。能動的な授業が行われ、事前事後の学習が徹底され、プログラム全体で組織的に授業改善に取り組めるときがいずれ来てほしいと願う。その一方で、「審議まとめ」のなかにいくつか気になる表現があった。その一つが「主体的」である。「審議まとめ」に従えば、私は米国で主体的に学んだとも、主体的に学ばなかったとも言えてしまうからだ。
 米国の大学で私はいかに主体的に学ばなかったか
 1995年から2000年にかけて私は米国の大学院に留学した。そこは研究大学だったから、私が経験した教育はコミュニティカレッジやリベラルアーツカレッジの教育と同じものではなかったろう。飽くまで一つの事例として紹介したい。
 私はフロリダ州立大学の博士課程に入学し、コースワークを終えるまでの2年間、教育学と哲学を中心に大学院の授業単位を取得した。また、TAとして3年半、学部レベルの日本語と教育学の授業を担当し、いくつかの学部の授業にももぐりで出席させてもらった。米国には確かに学生に勉強させるシステムがある。しかし、そのシステムは主体的に学ばせるシステムではなく、他律的に強制的に勉強させるシステムであった。
 たとえば、4点満点のGPAが大学院では3点、学部では2点を切ると、退学猶予となり、翌学期に回復できなければ退学させられる。奨学金のなかには学部でもGPA3点を切ると支給されなくなるものがあった。成績付けも甘くないので、学生はGPAの維持に必死となる。学期末になると、学生がオフィスアワーにやってきては、なぜ自分に良い成績が与えられるべきなのかを切々と語ってくれた。一方、日本語教育の責任者からは、成績は厳しくつけるようにと言われていた。フロリダ州立大学の日本語プログラムが下した成績は他大学や企業から信頼されており、これまで築いてきた評判を落とさないようにしてほしい、と。
 学生は週5日のうち、どの日も朝から夕方まで授業で埋め尽くすようなことはしない。授業をたくさん取ると、一つの授業にかけられる勉強時間が相対的に短くなり、良い成績が取れなくなってしまう。その結果、GPAを高いレベルでキープできなくなるのである。また、授業料は聴講登録した単位数で決まるので(つまり、日本のように学期定額制ではないので)、支払った分だけは単位を取らなければ、もったいないと思う仕組みになっている。
 担当した授業の一つ「日本語初歩」は、五単位の授業として、週5日毎朝1時間目に開講された。初めて習う語学は毎日少しずつ強制的に勉強させる時間割設定になっているのである。他方、聴講した大学院の3単位授業は、毎週1回3時間連続で行われた。否が応でも濃密なディスカッションとなるよう授業準備が求められていた。実際、ほとんどの授業で毎週百頁前後の読書課題が出され、なかには批判的小論文を毎週提出しなければならない授業もあった。こうした強制的に学ばせる授業システムのなかで、私は鍛えてもらったとの思いが強い。
 「主体的」とは何か
 「審議まとめ」が「主体的」という表現を鍵としていることは明らかだろう。表題には「主体的に考える力を育成する」とある。見出しにも本文にも「学生の主体的な学び」等の表現が散見される。しかし、この「主体的」が意味するところは一定ではない。
 「審議まとめ」における「主体的」には少なくとも次の三つの異なる用法ないし前提がある。@指示や強制によらず、自らが判断し行動している、A授業時間に留まらず、授業の事前・事後にも学習している、B授業において能動的である、の三つである。
 「審議まとめ」において、これら三つの用法・前提は相互に関連づけられている。「主体的に考える力を持った人材は、受動的な学修経験では育成できない」ため、能動的な授業が求められるとされる。また、授業の予習(準備)と復習(展開)に授業の2倍の時間をかけることをもって「主体的な学び」と呼ばれるが、能動的な授業はこの事前と事後の学習をつなぐ核と考えられている。
 しかしながら、@の意味で学生の主体性に任せていたのでは、Aでいう事前事後の主体的学びを実現するのは困難だろう。事前学習をさせたいのであれば、主体性に任せず明確な課題指示を出す方が早い(明確な指示のない授業にも価値があると私は思っている)。また、Bの能動的授業が主体的学びを喚起すべきものであるにしても、それが大学の授業である限り、授業者は自らの責任において活動の枠組みと評価基準を設定し、クラスを統制せざるをえない。授業者にとって@の「指示を待たずに主体的に考える力」は目標であるが、AやBのいう「主体的学び」は授業者が学生と責任を分有しながら進めるべき活動のあり方を指す。これらを「主体的」という一つの表現で論じてしまうと、教育改善を目指す議論において思わぬ誤解を生じさせてしまうことになりかねない。
 米国の学生が他律的に学修時間を確保していることは、Aと直接関わる結果であるが、Bとの関係は間接的である。「審議まとめ」でも明言されているように、学修時間の確保は始点である。さらにBの能動的授業が実施されなければ、授業を手段に@に至るのは難い。「主体的」という言葉がこのことを曖昧にしてしまうために、意味ある提言が誤解されてしまわないか心配している。
(おわり)


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