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平成23年5月 第2441号(5月11日)

大学改革に哲学はあるのか
  教育哲学が考える大学改革 (2)


慶應義塾大学・文学部教授(比較大学高等教育論) 松浦良充

大学と教育
 教育機能の改善・強化。それは現在の大学改革における最大の焦点である。大学は教育制度体系の最高・最終段階に位置する。大学の重要な使命が教育にあることは疑い得ない。
 こうして、シラバス、授業評価・授業改善、CAP制、厳格な成績評価、GPA、授業時数の確保、補習教育・初年次教育、学習支援、宿泊オリエンテーション、キャリア教育、カリキュラム・ポリシー/ディプロマ・ポリシーの設定などなど、多彩な教育上の工夫や装置が導入されてきた。「教育よりも研究を重視」する大学教員が厳しい批判にさらされる一方で、学生に手取り足取り、きめ細やかな配慮やサービスを提供する「面倒見のよい」大学がもてはやされる。「教育力」のある大学をめざせ、学生や社会のニーズに対応して大学教育を改革せよ、という、まさに「社会的なニーズ」に大学は迫られている。
 ただし不思議なことがある。大学教育の改革が大切だ、という大合唱のなかで、実は、どのような教育が大切なのか、という議論が驚くほど希薄なのである。もっとも前述したように教育の方法や装置への関心は強い。しかしそれらは単なる手段・ツールに過ぎない。それを用いて、どのような教育を展開しようとするのか。大学が重視するべき教育とはどのようなものなのか。大学にとっての教育の意味を追究する批判的考察・議論がない。
機能主義モデル
 大学にとって教育とは何か、という根本的な問題が等閑にされる。それは前稿で述べたように現在の改革が、大学を機能として捉える立場から進められる傾向が強いことと密接に関係する。機能性重視の大学観のもとでは、そこにおける教育は、単純なモデルで考えられがちだからである。ここではそれを機能主義モデルと呼んでおこう。すなわち教えることと学ぶこととの間に強い相関性を求め、合理的・効率的に学習成果をもたらす教育が優先されるのである。その際の学習成果は、点数化するなど量的に測定・評価されることが多い。そのため教育も、比較的短期間に、量的に計測可能な成果をもたらすものが優先されがちになる。機能主義モデルは、学習者にその内容が確定した知識や技能を伝達し習得させる場合には有効である。初等中等教育においては、主流の教育・学習観である。
 しかし通常私たちが教育として捉えている事象は、必ずしもそれだけではない。教育は意図的な活動であるが、その意図が現実的に100パーセント学習者に達成されると信じるものはいない。いや、教育者の意図が学習者に完全に体現するようなものは、かえって教育とは呼べないのかもしれない。また私たちは、教育者が思いもかけないような作用(や反作用)が学習者に及ぶことを経験している。もちろん学習者にとって明らかに負の意味や価値をもつ作用もある(反面教師)。しかし教育・学習の成果が正なのか負なのかという評価は、立場によっても、また時間的な経過によっても大きく異なることがあり得る。
 大学改革の課題として教育の改善・強化が焦点化されるのは、従来、大学において教育が軽視されてきた、との認識にもとづいている。確かに大学は、一部の専門分野やプログラムを除いて、総じて機能主義モデルの教育に親和的ではなかった。それが、大学・高等教育における、大衆化、職業・技能志向、情報化・知識基盤社会の到来、アカウンタビリティの重視などの現代的な動向のなかで反省・批判されるようになったのである。
 しかし大学は成人もしくはそれに近い若者を対象とする。しかも多様な専門領域から構成され、卒業後の進路は多様である。その教育は、実際的な専門的職業技術の養成をめざすもの、あえて実利性を追求しないものまで様々である。もちろん学生は授業単位を修得し、卒業して社会に出ることをめざしている。しかしそれのみではない。学生は学生生活に多彩な意味を見いだそうとしている。その経験の総体が学生の学習成果を構成する。
脱・機能主義モデルの教育概念
 教育哲学の課題は、大学における教育概念に豊かな意味を付与し再構成し、それを、大学改革をめぐる議論に提供することにある。現代の大学改革が前提とする教育概念を批判的に捉え、機能主義に単純化されない脱・機能主義の教育概念を構築することである。
 ただしこの作業は、いたずらに教育概念を拡張し、あらゆる意味をそこに組み込むものではない。たとえば最近の「教養」概念がこれにあたる。各論者が、思い思いに恣意的に定義した教養概念を振り回して議論している。みんな教養が大切だ、と主張するが、違いがわからない。そのため、いま・これからの状況でどのような教養が大切であり、それをどのように形成してゆくのか、という政策的な筋道を考えることができない。
 教育概念についても同様である。恣意的な定義ではなく、私たちが(大学)教育として捉えているものの内容や特性の構造的な解明が必要である。その際、教育と近接することば・概念との差異を意識することが大切になる。教育と学習、人間形成、訓練、経験、生、などである。なおその際に、それぞれの概念が歴史的に生成されてきている、ということに留意したい。教育や教養の概念構成について、その意味を特定・限定する有力な根拠は歴史のなかにある。教育哲学による概念明確化という作業は、教育思想史研究の裏づけを活用することになる。概念規定の恣意性はそれによって克服されるであろう。
 さらに大学教育概念を考える際には、初等中等教育との連続性と差異にも着目する必要がある。大学教育は、必ずしも無条件に初等中等教育と差異化されねばならないわけではない。しかし前述したように、大学には、最終教育段階であるとか、多様な専門領域をもつなどの特性がある。また現代の大学は、教育のほかに、研究や公益的活動(社会的サービス)などの役割を担っている。大学の教育概念は、これらと切り離して構成することはできない。切り離すから、機能主義モデルが横行することになる。既定の知識・技能の伝達・習得だけではない、新たな知の発見や創出・再構成、その社会的な還元、という大学の様々な営為との関係において、大学教育の特性を再確認することが求められている。
 ここまで述べてきたことは、学生の「学力」低下が叫ばれるときに、現実離れした理想主義的な教育概念を描くものと誤解されるかもしれない。しかし「学力」低下というのは、教育の機能主義モデルのもとで生じることを想起してほしい。大学教育における新しい教育概念・モデルの構成は、大学の様々な知的・人間形成的活動の再評価を基盤とする。脱・機能主義モデルの構築は、初等中等教育で挫折を余儀なくされた学生たちにも大学が新しい意味世界を開くことをめざしている。

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