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平成23年1月 第2426号(1月1日)

2011年 新春座談会
 高等教育のパラダイムシフトの構築
 地域の時代の私学の役割 


●出席者
 ▽大沼 淳氏=日本私立大学協会会長  文化女子大学理事長・学長
 ▽黒田壽二氏=日本私立大学協会副会長  金沢工業大学学園長・総長
 ▽福井直敬氏=日本私立大学協会副会長  武蔵野音楽大学理事長・学長
 ▽柴 忠義氏=日本私立大学協会常務理事  北里大学理事長・学長
 ▽佐藤東洋士氏=日本私立大学協会常務理事  桜美林大学理事長・学長
 ▽小出秀文氏(司会)=日本私立大学協会事務局長 

 平成23年の新春を迎え、本紙では「高等教育のパラダイムシフトの構築」をテーマに、日本私立大学協会の大沼 淳会長をはじめ、別掲の6氏による新春座談会を開催した。数年来の厳しい経済状況、そして、混迷気味の政治情勢の中で、18歳人口の減少、就職状況の悪化等が重なり、私学経営もまた危機に直面している。定員未充足校の割合の高止まり、大都市圏集中による二極化など、もはや対症療法的な対応は限界に至っており、戦後60余年を経た今日、旧来の高等教育に係る枠組やシステム等を根底から改革する新たなパラダイムシフトの構築が求められている。今日、私立大学は全学生の約8割の「将来のわが国を背負う中核的人材育成」という重責を担っており、その責任を果たすための高等教育や私学振興の課題及びあり方について議論していただいた。〈敬称略〉

私学の私学による私学のための高等教育政策の立案を!

戦後60余年の中での教育制度のひずみ
○小出(司会) 新年、明けましておめでとうございます。平成23年の新春を迎えましての「教育学術新聞の座談会」でございます。よろしくお願いいたします。
 今年は辛(かのと)卯(う)という年になるそうです。「辛」が辛く厳しい年回り。「卯」は、はね回る兎の年でありますから、盛んになるという意があるそうです。辛卯は、大きな変動の中に次への芽吹きが台頭してくる時期のようです。私学を取り巻く情勢は、さまざまな課題に遭遇していますが、大きな変化の局面を迎える年回りかなと思います。
 本日の「高等教育のパラダイムシフトの構築」は、今年度、日本私立大学協会の重点政策目標として掲げているタイトルでありますけれども、今日は、日本のこれからの新しい進路に果たしていく大学、特にその77%を占める私立大学の在り方・役割について高等教育政策、私立大学振興策の観点から議論を深めていただく場にできればと思います。
 それでは、最初に、これまで私立大学の果たしてきた役割や今日の現状について、大沼先生からお話をいただき、そして諸先生方から昨年一年間を振り返って、感想や特に大きく印象に残った点などをお願いしたいと思います。
○大沼 おめでとうございます。
 日本の教育の最も身近な大転換期は1950年(昭和25年)で、新制大学を含め新制の学校制度が一斉にスタートをした年です。それから30年遡った1920年(大正9年)は、私立大学が初めて日本に生まれた記念の年です。つまり大正7年の大学令の公布により、大正9年に早稲田や慶應義塾を始めとする現在の有力私立大学が認可された年です。それからさらに30年遡る1890年は、大日本帝国憲法がつくられた翌年です。
 逆に、1950年から30年経った1980年は、専修学校制度や私学振興助成法ができて、新学制も定着し、高い進学率を記録しました。それからまた30年たって今日に至っています。
 1890年から1950年に至る60年間は、日清、日露、日中、太平洋と戦争が続き、社会の激しい変化があり、近代学校制度も大変な勢いで発展をしてきました。戦後は、量の拡大の中で60年が経過して、至るところにひずみがでています。そこでこの60年経った戦後の制度をもう一度きちんと見直して、基本的にどういう問題が存在して、それをどう考えていったらいいか、高等教育のパラダイムを構築していかなければならないぎりぎりの限界に来ているのではないかと思っております。
○小出 明治維新以来この方の教育制度、学校制度を時間軸に追いながら基本的な問題指摘や現状認識を伺いました。
 次に、柴先生からお願いいたします。
○柴 明けましておめでとうございます。
 平成22年を見ていて、政治も含め、あるいは教育も、何も明るさがない1年だったと感じております。今の少子化の時代に、18歳人口だけで大学が頑張っていこうといっても、難しい時代に入っています。高等教育機関としては、社会人の受け入れなどをこれから盛んにしていかなければいけないのですけれども、それに対する国の取り組みや、企業の受け入れに対する考え方はまだまだ成熟していないように感じます。
 ですから、社会人あるいは退職後の人々がより学びやすい環境をつくることがこれからは必要で、これは大学の存続とも当然結びついてくるのですが、そういう社会になっていかないと日本全体が心豊かな社会にならないという気がします。
 それから、私どもは職業教育をしていますが、例えば医療機関で働く従事者になるための教育を受けた人材が国としてどのくらい必要なのかという指針がない。資格を取れば安心して就職ができるという発想のもとにたくさんの大学、あるいは学部ができているのですけれども、実際に教育を受けた学生が卒業した後、就職にどういう見通しがあるのかということが全く国から出てこないのですね。
 特に医療の世界は、当事者や教育している側から見ると非常に不安になるのでして、卒業後の学生が資格を取った後に、それを生かす社会になっているのかが、不透明なところがあると思うのです。そういう意味で、国はリーダーシップをとってほしいと感じています。

教育制度の構造・仕組みの見直しが求められる
○小出 日本全体が豊かな社会となるための大学の進路について、社会人受入れや重要な職業教育の問題など、大学政策の方向についてご指摘いただきました。続いて、佐藤先生からお話を伺いましょうか。
○佐藤 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
 今、お二人の先生のお話を伺っていて、大学あるいは教育の制度が60年刻みで変わってきた、そういう中で特に旧制の制度からポストセカンダリー教育(中等後教育)という仕組みに変わって60年経っているわけですが、まだ社会全般の大学に対するイメージは、旧制の大学を意識しているのではないかと思います。旧制を維持しながら新制になって、旧制高校での教養教育を新制の中で盛り込むことが、若干欠けていたというような気もいたします。そういう意味では、教育制度の構造、仕組みもここで一度見直しをする時期が来ていて、社会にもそれを十分に理解していただくことが必要だと思います。
 最近気がかりなのは、中央教育審議会大学分科会でも、規模の整備などの観点からいって、小さな大学は合併させるとか統合するとか色々な議論がありますが、それぞれの私立大学には建学の理念、建学の精神があるわけですから、大学の規模が小さいから存在できないという政策や社会構造はよくないと思います。ですから、新しい制度になって60年が経ち、これらのことも含め、全体を考え直す節目の時期が来ていると感じております。
○小出 大学論についてのきわめて重要なご指摘をいただきました。後ほどさらにご議論を深めていただければと思っております。
 福井先生、どうでしょう、芸術系の情操教育の責任あるお立場でございますが、ご感想も含めて。
○福井 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
 芸術のことは後から申し上げるとして、今のお話を伺って、大学を見ますと、明治からこの方、日本が発展してきた国力や経済力などが推移する中で、暗黙のうちに教育界はどうあるべきかという理念があったはずなのですが、最近の人口動態などもろもろの変化の中で、継承されてきたはずの伝統が崩れてきていると思います。
 端的な話が、近年、教育界に極端な競争原理、準則主義などが持ち込まれ、元来教育界とは倫理観に基づいて動いていくものだと思っていましたが、それすらも崩れてきているのではないかというようなことを感じています。今後私学として、それぞれの建学の精神を基本にして、教育機関として自重し、持つべき理念は持たなければいけない。具体的なことは別として、一番感じている問題は、性善説が基本であったはずの教育界で、どうやらそれが反対になってきているのではないかということです。今の大学の置かれている立場に、色々な面から見て混乱があるとするならば、制度ばかりにとらわれず、そこをどう整理し、継承していくのかを考えていかなければならないと思います。
 先ほど小出さんから、兎は飛躍の年だというお話があったのですが、不謹慎な例えかもしれないけれども、兎と亀の話で言えば、兎は勢いよく飛躍をしても、跳ねるだけでは結局は遅れをとるということでありますから、そういう意味で言いますと、飛躍をすることの中身を中期的・長期的に整理して取りかからなければいけないということが一つ、先ほど申し上げたように、教育界の流れの根本にあるべきわが国元来の倫理感を常に考えて、亀のようにゆっくりと、しかし着実に進むこと、その両方を兼ね合わせて考えていかなければいけないのが今年の兎年の課題ではないかという気がいたします。一言で言えば「不易流行」ということでしょうか。
 それから、先ほど芸術ということを言っていただいたのですが、最近、日本学術会議から出た「大学教育の分野別質保証の在り方について」(回答)の中に、知育、体育、徳育という形で書かれております。古今東西の芸術作品を鑑賞し、その創造過程を体験することは、固定観念を打破し、新鮮な発想や着眼点を身に付けさせ、精神の均衡や強化に効果が期待できる。教育は頭(知育)、体(体育)、心(徳育)の、三つをバランスよく育てることであるという点は、プラトン以来どの教育論でも述べられているが、日本の大学はあまりにも言語あるいは論理による教育(知育)に偏り、申し訳程度の体育を行い、徳育を司る芸術や宗教に関しては、殆ど手をつけてこなかった、云々と書いています。もちろんこの反省は21世紀型市民を育てるための教養教育に向けられたものでありましょうが、わが国の文化芸術の基盤をもっと強化しなければならないと思っている私としては全く同感で、芸術を少し見直していただいたことを、嬉しく思っています。
○小出 政策に続く改革という流れの中で、大学の在り方、また大学政策の根幹についてのこれまた重要なご指摘でございました。この観点からも後ほど議論の深化を期待したいと思います。
 さて、次に中教審大学分科会の質保証部会の座長もお務めになられ、あらゆる変化の局面で指導的な立場でおまとめをいただいている黒田先生から、昨今の情勢も含め、感ずる点も含めてご指摘をいただければ。
○黒田 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 今年は、日本国家として大転換をする年ではないかと思っています。経済活動のありようも、また社会活動、国民の活動そのものも変化をしなければならない。グローバル社会の中で、国際社会を見据えた日本の立ち位置をどうするのか、日本国家の進むべき方向性を決めていく時期に来ていると思います。昨年の暮れに中教審キャリア教育・職業教育特別部会から、「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」の答申が出されたわけですが、この答申に至るもともとの議論はどこにあるかということが重要なのです。
 先ほど大沼先生が言われたように、戦後、新しい教育制度ができ上がったときに、日本の古来の教育であった修身教育や道徳教育、武道教育、日本の歴史教育等がすべて廃止させられたわけですし、一部復活したもののそれに代わるものは生まれなかった。その中で、戦後教育で一番抜けていたところは、個々人の社会的自立や自ら思考する力を養う教育で、低学年からずっと行われなかったこと。それが大人になり、社会人になり、またその子ができ、孫ができという、そういう時代の中で60年が過ぎたわけです。
 戦前とは全く違う人種といいますか構造体になっているのですが、一方指導者たちは今でも戦前の教育を受けてきた人が多い。ですから、戦前に受けた教育のありようで物を語るという、そこに大きなギャップが生まれていると思うのです。だから、その辺を解決していかないと、日本の今後のありようは非常に難しくなる。戦後、なぜそういうことになったかというのは、アメリカの占領政策の一環として日本の教育改革がなされた。60年後には日本の国民が再び世界的に立ち上がれないようにするのだという、それが埋め込まれていたということ。このことは、アメリカも途中で(朝鮮動乱・昭和27年)すべてを解禁したのですが、そのときに日本の国として対応しきれなかったということ、それが最大の原因で今日に至っているわけです。
 だから、特別部会で2年間、30回にわたって議論をしたわけですが、そのほとんどを費やしたのが、幼児教育、家庭教育から始まって高等教育に至るまでの個々人の社会的・職業的自立、キャリア形成をどう図っていくか、そういう力をどの時点で、どうつけていくかということでした。昨年の暮れに出た答申は、高等教育における「新たな枠組み」が表面に出ていますけれども、あれは一部の話であって、それが目的ではないのです。日本の教育をどう立て直していくかという根本の問題だと思います。だから、それを答申の中から読み取っていただきたいと思っています。

18歳人口だけを考えた高等教育は立ち行かない
 それを受けて、大学分科会の質保証システム部会でも議論をしておりますけれども、これは個々の大学の質保証をどうするかという問題と日本の高等教育、特に大学の質保証、国際的に活躍できる大学をどのように構築していったらよいかが中心課題です。しかし、なかなかこれは難しい。国立大学がもう既にこれだけ整備されていて、それにプラス、私立大学がそれ以上の量的整備をしているのです。18歳人口だけを考えた高等教育は、もう既に成り立たなくなってきている。ところが、社会構造がまだ変わっていないものですから、外国の25歳以上人口の入学率が20数%に対して、日本は2%ぐらい。これはまさしく日本の企業の構造、社会の問題なのですね。一旦就職して、また勉強し直そうとすると退職をしなければならない、退職したら再び職場復帰は困難というシステムになっていますから、その辺で非常に難しい問題が起きてきている。これをどう解決するか、産業界との話し合いを今やっているところです。産業界もそういうことはわかっているのですが、利益追求をしなければならないし、国際競争にさらされているものですから、そう簡単には解決できない。
 それから、今年度は特に就職率が悪い。ところが企業から言わせると、新卒採用数は増えている。ただ、それはグローバルに募集しているものですから、日本人を採る人数が減っただけだと言うのです。日本人がちゃんとグローバル社会の中で勝ってくれれば採用できるのだと、その辺のことは大学教育ではどうなっているのですかということをよく言われるのです。
 新卒採用数は決して下がっているわけではないけれども、採る範囲が広くなった。日本人は募集人数の大体半数まで達すればいいのだ、それくらいしか採れないと言うのです。ですから、おのずと日本人に対しては半分ぐらいしかないというので、50%から60%ぐらいになっているのが現状です。それも、今後どのように大学と企業がマッチングしていくかという問題だろうと思います。
 アカデミックな学位を与える大学のあり方は、今年は相当真剣に議論しないといけないと思うのです。国家の財政がこういう状態になっていますから、私学助成の拡充をと言っても、それはできない話なのです。ですから、大学がどのように改革していくのか、それが以前から言われている機能別分化につながってくるわけです。中教審では七つの分類をしていますけれども、あれは決して分類の方法ではなくて、例えばこういうふうに分けてみるのもいいですねという程度のことです。ですから、自分の大学がどういう方向に行くかということが問題になるのです。
 従って、今年は、特に私学の場合は、どういう人材を養成していくかというアウトカムが非常に重要になってくる。認証評価も第2クールに入りますから、その辺のことを中心にした評価のあり方に変わってくる。そうしないと、日本の機関別評価制度が成り立たなくなる。ただ単に文部科学省で言う、国の公的質保証の一環として設置基準をしっかり見てくれというだけでは大学は向上しませんから、大学にいかに国際的な競争力をつけていくか、その地域で役に立つ大学にするかが目的で認証評価を行うのですから、そういう制度が早晩構築されてくると思いますので、今年はそういう意味で変化の激しい年になりますし、日本そのものも変化しないとグローバル化の中で沈没しかねないと思っています。
○小出 パラダイムシフト議論の中で基本的に押さえるべきところや注意をすべき観点も、それぞれの先生方から非常に重要なご指摘をいただいたと思います。内外の大学を巡る環境変化については、これまでもさまざまに客観的に押さえてきているお話でございます。今、黒田先生からご指摘があった就職・採用の問題を含め時代を象徴する話題も出たところですし、日本社会の今後との関わりにおける大学の役割は一体どういうことになっているのかという話にも、大きな問題提起が出てきている気がいたします。大学と社会とのかかわりの問題にも大きな波が立ってきています。
 それぞれもう少し具体的にお話をお伺いします。大沼先生、明治維新以降この方、志のある国をつくり、人間形成教育というものがしっかりある部分なされてきた、その60年前以降の状況において、先ほど黒田先生のご指摘になられた点ですけれども、基本的に欠落してしまっていたものは何か。例えば学力不足とか、人間性の問題であるとか、留学生も全く日本から海外へ出ていかない風潮もあるとか、どうも人間性、人間力という点で心配な側面もあるのですが、人材育成という視点で見たときの問題意識について大沼先生はどのようにお感じでしょうか。
○大沼 第2次世界大戦という非常に大きなショックがあって、学校制度も大幅に変わったのです。それは、入学システムを中心にした旧制の教育制度から、戦後はディプロマシステムを導入して、卒業資格を重要視した学校制度に変えたことです。新学制は、一定レベルのものがあって規定の単位数を取得すれば卒業できるという制度にはなっていながら、現実はこのディプロマシステムが正確に機能していません。それははっきりした原因があって、歴史のある大学が旧制度を温存したからです。日本の教育は、江戸時代は地方都市の適塾や松下村塾など、個人塾や寺子屋という民間学校が大部分であり、明治維新はそれらの学校の出身者によって成し遂げられたのです。国家的視点から必要な人材育成を中心に歴史が綴られてきたわけです。したがって、その後、国公立学校が中心となり、私立学校には力を入れなかったのです。そこに大きな課題が残されており、6・3制のディプロマシステムの教育制度をつくって60年たっても旧制の教育システムが機能しており、いまだに新機能が動いていない。

教育制度を変えても中身が変わっていない
 これは何故かというと、教育の権力者が、戦前に成功した教育制度の精神をそのまま戦後も全く変えようとしなかったからです。そういう考え方が変わってこないから、60年たった今、さまざまな行き詰まりが生じているのだと思います。要するに制度は変えても中身を変えない、中身は依然として同じことを言っているわけです。
 その間に社会構造は変わってしまって、高度化されて、大学進学率は昭和16年の統計では1.5%しかなかったものが、池田内閣が高度成長をうたった昭和35年には10%になる。中等教育については50%を超すのです。それだけの勢いで上がってきて、高度成長期にはもっとすごい勢いで進学率も伸び、昭和50年代になると、専門学校を含めて高等教育への進学率は50%を超えてしまいました。近い将来、学校種別の差があったにもかかわらず、高等教育段階への進学者が90%という時代がやってくると思います。それらにどう対応して教育を進めていくかというパラダイムが全然組まれないまま来てしまっていることが大きな問題なのです。今年以降が大改革の年だということについては、私も同感です。
○小出 時系列のお話の中で、ちょうど今、わが国が真に成熟社会を実現しグローバル社会の中で名誉ある地位を占めて大いなる役割を果たしていくためには、人材養成が最も重要な課題で、特に高等教育には大きな期待が寄せられている。それには多様な人材養成が必要だと、あるいは地方で活躍する人材も必要だと申し上げています。しかし高等教育の様々な分野で地方と都市部との格差も大きくなっている。世界各国との格差も、特に近年顕著になってきている。先進国に追いつけ追い越せの時代から、フロントランナーとしての人材をどう育成していくのかも重要になっていますが、そんな角度はどうでしょうか。
○大沼 私は全く同感なのだけれども、実は近代化というのは都市化のことなのですね。ですから、地方にいる人材をいかに都市文化に役立つ人間に育てるかということをやってきたのが、近代化の学校の役割だったのです。その結果として、日本の経済発展やこれだけの科学文化を築いたのです。しかし、いま、様々なことが都市に集まり過ぎている。これからは、それをどうするかという逆の転換を前提にしないといけない。言葉をかえれば、都鄙の均衡を図らなければならないといえます。
 数学者の藤原正彦氏(お茶の水女子大学名誉教授)も言っているように、近代化は人を都会へ集める、日本の国全体を都市化してしまう。大学の中央への集中は、都市化の一つのシンボル的存在なのです。ですから、都市化はやめて、近代化、つまり工業だとか技術の進歩は少し抑えろというところまで話は及ぶのかまで念頭に置いて議論しないといけないという感じはします。
○柴 日本も成長期があって、アメリカと摩擦が起きたりしましたが、中国の現在の立つ位置は、日本の高度成長期というか、そういう時代の姿だと思うのです。日本は、教育も政治もそうですが、今後の成熟社会に向けての指針があるのかと甚だ疑問です。かなり限られた人口で国民が力を発揮していくには、社会の中で我々がどのように政治をし、あるいは国をつくり、人材育成のための教育をしていくのかがちゃんと見えてないということが、大きな問題なのではないかなと思うのです。
 ですから、中国の発展が脅威だとかそういう問題ではなくて、ヨーロッパを見ているとやはり立つ位置が違うのではないかと感じます。教育もアメリカからヨーロッパ型にする。国民の生活に対する考え方も、やはりヨーロッパのような社会システムにして違う社会を見ていかないと、日本の色々な意味での発展はない。その根幹には教育があると思います。

私国公立大学の指針の見直し必要
 そのときに、先ほどから出ています初等教育からどうやっていくか。黒田先生から、色々中教審でも議論されたということなのですけれども、あるいは高等教育の中での私国公立大学のあり方などきちっともう一度見直して指針を出さないと、今のままでずっといってしまうような気がするのです。そうすると、非常に恐ろしいことになるのではないでしょうか。先ほどの25歳以上の社会人でもそうですけれども、企業は大学院に送るようなシステムを構築し、1割の社員を大学院に送り出して、倫理や道徳教育等、希薄になりつつある部分での再教育をそこで付加するとか、あるいはサイエンスの分野であれば、大学院に行って、また先の分野を企業として勉強させるとか、そういう風土を産業界に持たせるシステムをつくっていかないといけないのではないでしょうか。そういうことが成熟社会をつくっていくことではないかなと思うのです。そこが今の日本では混乱している感じがするのです。
○小出 アメリカ、そしてヨーロッパの精神風土、そして東洋と日本の風土にかかわるもの、戦前には津田左右吉先生(歴史学者)などもそのあたりを明確に語って分析をしておられた。私どもは、65年前にそういうものをすっかり否定されたところから、この60有余年の歴史があるわけです。今、範とすべきもの、あるいはその軸、スタンスをどこに置くのかというあたりも見えない、語られない。倫理の話も先ほどありましたが、佐藤先生はアメリカの風土に関しては卓越していらっしゃるのでありますから。大学の側からぜひ語っていただきたい。
○佐藤 今のお話を伺っていて、祖父や祖母ぐらいの時代というのは―祖父などは中学生のころに、お国の役に立つためにはどうしたらいいかと考え、「将来、自分は高等学校に行ったら理科、技術を研究するんだ」といった目標を明確に持っていたが、今は自分が社会のために貢献する精神がなくなってきたと感じています。将来偉くなってということはあるのかもしれませんが、何のために偉くなるのかは別にしてしまっています。例えば戦後の小学校の教育などでは、とにかく色をなくす。運動会は1等賞、2等賞と順位をつけてはだめ、国旗は掲揚してはいけないとか、国民全体が自分たちの生きていく目的をつくることを否定された教育をしてきたのではないかなと感じてしようがないのです。
 そういう意味では、大学教育の前に初等中等教育も変えていかないと、大学だけが一生懸命、18歳にもなった人間に、こういうふうに引っ張っていく自覚をしろと言っても、なかなか難しいのです。ですから、これらのことも含めて考えなければいけません。
 もう1点は、誰もがみんな大都会に出てきて生活をしたいという風潮がありますが、私大協会などは地方支部の活動も多岐にわたっておりますので、地方をもう一度見直すことが必要だと感じています。都会であれば本当に狭いマンションにしか住むことができないけれども、地方であれば豊かな生活や、子どもたちの心もゆとりのある生活ができる可能性があるわけです。地方に光るものがあれば、もっとそれを発掘して、みんなでそれを共有していかないといけないということを感じています。
○小出 家庭教育の問題点から、初等教育、中等教育の問題点から全部を大学へ持ってきて改善していくべきだという話がずっと続いてきているように思うのですけれども、やはり教育界全体で取り組むべき根幹的な問題が残っている。それは柴先生がご指摘になるような、教育の原点をどう考えるのか、どこに成熟社会の規範を求めていくのか、「どれだけあったら足りるのか」といった国民全体の価値基準の再確立の必要性といったそんなお話にもなってくるのですね。
○柴 先ほど黒田先生が、戦後、道徳教育がなくなった後の親に子どもが生まれて、その子どもがまた社会に出ているということのお話をされましたけれども、やはり60年間ないと、基本的に教育の転換はできないと思うのです。根本的に、どこかで目覚めて、教育に携わる人たちが改革を進めることによって、それが実になるには60年かかるわけで、今まさにそういう転機に立っているのではないでしょうか。
○福井 今のお話を伺っていて、諸先生方のお話と共通すると思うのですけれども、国と社会と大学が三竦みになってしまっていると思うのです。その中で私立大学はどうするのかということでしょう。教育はもちろん、最も重要なことだけれども、2年や3年の短期間に急に変わるものではないこと、しかし、社会はもっと急速に変わっていくときに、私立大学として、あるいは大学の団体として、そういう中で何ができるかは、今のお話の延長だと食い違ったままになってしまう。それをどうするのかということです。
 先ほどの佐藤先生のお話にもありましたが、世間では個人の存在や権利の次に、突然世界の平和が短絡的に話される、そのためにはどれだけ自分たち自身が責任と負担を負わなければならないかまでは誰も考えないのです。先ほど柴先生が、昨年1年は暗い年だったとおっしゃいました。社会から私学あるいは大学が色々な課題を課せられて、それをどう解決していっていいか一番迷った年だったと思います。
 ですから、本当は国とか国立大学に期待するところはあるのですけれども、それを今ここで話すのは、また別の問題で、あまり国立大学にこだわらず私立大学としてできる範囲を見極め、それによって力強く独自の提言をするようにしていかないといけないと思うのですが、それが私立大学のパラダイムシフトではないでしょうか。
○小出 時代認識といいますか、教育制度について意識の一致している点をよく伺わせてもらいました。この間、私大協会では、大学の機能別分化の前に、特色の発揮であるとか個性化であるとか、1校1校がかけがえのない存在となる活動を展開してきました。同時にまた、昨今は生涯学習社会での学び直しの到来にどう対応していけるか、あるいは地域連携、地域の中の産官学の連携をどう果たしていくかに大きな旗を振ってきたのですけれども、全体的に見て、これから先々、大学政策、私学振興政策にどういうものを求めていくか、世界水準への高度化の実現と高等教育の一層の普及拡大がいよいよ重要になってきていると感じます。
 他方、全国の私立大学を見回しますと、定員未充足の問題なども極めて深刻です。これは、大学が悪いことをしたからではなくて、社会の構造的な問題としてそういう現象が起こっているわけですね。そうかと思えば、都会の大規模大学にあっては大変応募状況もよいようなお話もある。これまでの私学振興策とは異質な定員未充足問題、格差問題などもあることはご承知のとおりです。
 そんな状況の中、ファンディングの問題においては、国立大学に対しては1兆2000億円の運営費交付金等が、法人化後にあっても、当然のごとく毎年支給されている。減額されてきたというこの数年の経過はあるにしても。それに引きかえ私立大学の場合には、全大学で3200億円ぐらいの状況であります。学生1一人に換算すれば、国立大学には187万円、私立大学には15、6万円、そういう大きな格差も生じている。このファンディングの問題などもどう見るのだと。

地方中小規模大学の奮闘とファンディング問題
 私学振興助成法が昭和50年に議員立法によって制定されまして35年経つわけですけれども、あのときの目標は、ご承知のとおり経常費の2分の1補助の実現が目標でした。しかも、その目的では、教育研究の質の向上、保護者負担の軽減、経営の安定化ということがあったわけですが、今日では完全に形骸化という問題にぶち当たっています。
 このあたり、中小規模であっても、地方に立地していても、私学教育をまじめに全学一致で展開しようとしている全国の私立大学に対して、これを鼓舞激励する大学政策をいかに確立するか、どう考えていくかが極めて重要なわけです。これらについて、ご感想やご意見など、まず大沼先生、いかがでございましょうか。
○大沼 ファンディングのあり方については、国立大学は戦前のままきちっと手当てをしてもらえましたが、私立大学は戦前も戦後もほとんど手当てされることなく、補助金もありませんでした。補助金がついたのは昭和50年代からです。それまでのファンディング問題は国家としてはなかったわけです。OECD先進28カ国中、日本は国としては最低で、こんな安上がりに大学ができている国は珍しいのです。
 それはなぜかというと、私立大学の人たちが、自分の財産を提供したわけです。要するに私財を学校に寄附をして、これだけの大学をつくってきたので、そういった意味では、戦後、日本の社会にこれほど大きく高等教育を充実することに寄与した私立大学は世界中にないのではないか。世界の教育史の中でも、日本の私立大学の存在は、私は誇っていいと思うのです。
 ですから、例えば北里大学でも、私立大学の中で細菌の研究所等を中心にして、それだけ大きな功績を残しているのですから、国立大学医学部と北里大学とどっちが大きく貢献したかといったら、一概に国立大学とは言えないと思いますね。戦後のこれだけの業績は、私立大学の力があってこそ作り上げられたのです。
 ところが、依然としてまだ国立大学に主権を持たせているのは、非常に遺憾です。だから、予算を削るのだったら、国立大学を削ればいい。ところが、ともすると、国立大学を充実させて私立大学の補助を削ればいいとなる。小出さんが最初に言っているように、戦前の考え方がちっとも変わってないというのは、為政者のほうだと私は思うのです。
○小出 とても心配する情勢が近ごろまたぞろ起こってきていて、そのことは逆に、もう少し為政者の方々にも、きちっとお話をして理解を求めていかなければならないと感じています。
 黒田先生、定員未充足のお話に絡みまして、私大協会は連携という言葉で色々な政策を展開してきましたが、機能別分化との絡みで何かヒントになるお話をいただけないでしょうか。
○黒田 日本は成長から成熟社会に入ってきていると言っていますが、成熟社会は、それでもう行き止まりなのです。後は衰退するだけなのです。成熟社会と言った途端に、その国はつぶれるのです。ですから、「成熟」という言葉はあまり使わないほうがいい。「成長」し続けないとだめなのです。それは人口が増えるというものではなしに、どういうふうに国際社会の中で成長していくかが大事なのです。
 国立大学と私立大学の差は、戦前からそういうふうにして生まれてきて、戦後も私立大学はあくまでも国立大学の補完というのが今でも続いているのです。二言目にはそれを言われるのです。戦後、これだけ日本の経済を発展させたのは、実際には私学人なのです。国立大学は、いまだに国家枢要の人材を養成するのだということを掲げているのです。ところが、最近、東京大学の法学部卒で財務省に入る人数が減っているのです。そうなれば、そんなに安い授業料で東大卒を求めなくていいわけで、国立大学もある程度費用に見合った授業料を取るべきだと思います。

地域で必要とされる大学をめざす
 しかし一方では、国家をリードする人材は養成しなければならないのですが、今のように、とにかく東京に集中させて養成するやり方は、私は賛成できないのです。各地方でそれをやっていただいて、その中から、日本中から指導者が集まってくるシステムをつくっていかないと偏りが出てしまう。東京でいろいろな審議会で議論するけれども、そのほとんどが地方には全くなじまない内容ばかりなのです。地方の意見も取り入れなければだめです。私大協会には、幸いにも沖縄から北海道まで地域の大学が満遍なく加盟しているわけですから、地方の意見を吸収していく力を持たなければならないし、また、地域で必要とされる大学とは何ぞやということを、大学人も理解し自覚しなければだめです。地方の人たち、住民から、あの大学はもう要らないよと言われたら終わりなので、大学自身が真剣に考えなければならない。対応が出来なければ、私立大学であろうが閉鎖においこまれますし、国立大学も同じです。
○大沼 私もそれは大事だと思うのだけれども、具体的にはどうすればいいか、それが問題です。問題は、地方の大学を強くするためにはどうするかです。
 例えば大学入試センターの存在、あれが完全に大学の序列を固定化してしまっている。ですから、地方がいくら頑張っても、入試センター試験でいい点数を取った学生の多くが都市の大学へ行くようにしてしまっている。地方へ人材を集めるために機能する入試があっていいと思います。公正さの点では素晴らしいですが、実績のある入試センター自体、そしてその機能等も今後検討していく必要があるのではないかと思います。
○黒田 地方の大学を強くするためには、その地方の自治体、経済界との連携がしっかりとれてないとだめだと思います。そうしないと、大学が必要だということを言われないわけですし、共同して基盤づくりも出来ないと思います。
○柴 私は公立大学の存在意義をすごく疑問に感じているのですね。あれだけ地方財政が苦しい中で、人材養成を何で地方がやらなくてはいけないか。それは必要な面もある。例えば看護師などは公立大学で必要かもしれません。ですけれども、私立大学がその分を担って、地方で必要な人材を養成していくということで、税金で地方の公立大学が人材養成をする必要はないのではないかなと思うのと、国立大学は、本当に日本で必要な人材を育成してほしいと思います。私は、東大はますます世界的なランキングの中で埋没し、だんだん元気がなくなってきているように思われてなりません。一部の国立大学はやはり真の大学院大学にして、どの大学・学部からでも挑戦でき、日本全体のリーダーになる人材をちゃんと育成していく。あとのところはほかの国立大学と私立大学に任せて、それぞれの特色のある教育をして、そこに役立つ人を輩出していくということのほうが良いと感じます。国立大学のそういうあり方、もう一つは公立大学の必要性と存在意義、それを解決すると、志願者が増え私立大学も含めて地方の中でかなり生きてくるところがあるのではないでしょうか。
 もちろん、我々も反省しなければならない面もたくさんあると思います。私立大学は、学生を集めるために変なことをしていたのではだめなので、教育機関としてのきちっとした姿勢を全大学が結束して持っている必要があると思うのですね。
○福井 先ほどファンディングの話になったのですけれども、国立大学は国が運営するから、運営交付金が出る、私立大学はあくまでも補助金という範囲ですから、その限界はあると思います。先ほど機能別分化とか地方のお話がありましたが、黒田先生はよくおわかりだから、あれは例示だけだとおっしゃってくださるけれども、社会では、ああいう7つの機能別分化が、上から書かれた順番に良い大学、格の高い大学だと理解されている。私大協会は北海道から沖縄まで多くのさまざまな内容の大学があるのですから、各大学の特色や存在価値を、時間はかかるかもしれないけれども繰り返し言い続けていただきたいと思うのですね。そうでないと、相変わらず一流大学は一流で、三流は三流という言い方になってしまうのですね。そうではなくて、機能別は良し悪しではなく、社会にとって全部必要なのだという当たり前のことを強く言っていただきたいと思います。
○大沼 地方分権制度にしろということなのでしょう。
○黒田 地方分権をやることと、ここまで来たら地方における国立大学と公立大学のあり方、機能別分化を推進することで一種のランク付けにならないように認証評価の在り方も合わせて考えなければなりません。
○福井 常に国立大学はいいのだという概念が今まであって、これは歴史がなせるわざだと思うのですが、国立大学の場合には、私立大学が絶対にできない本当の国家的プロジェクト、これは国の責任でやっていただかなければならないと思います。もちろん国立大学だけではなく、私立大学も大いに挑戦しなければいけないけれども。そのほかに、国立大学は常に中央しか考えないのでは困るので、やはり地方のこと、もう一つは、私立大学が経営できない地味だが将来にわたり必要な分野や学科を存続し、継承し、発展させることに、集中的にお金をかけていただかなければならない。
 もう一つは、逆に本当に困難な、例えば障害を持ちながらも学習意欲のある学生たちを教育したり、一人の学生に何人かの先生がつくぐらいのことをやっていただくことも、国立大学の義務ではないかと思います。ファンディングと言っても結局国の税金も使うのですから、何かの形でこれらをカバーしていく、例えば、地域格差や学習分野の偏重を解消するような国策や、国民に対しての義務を果たしていく人材育成、人材配置の方針を、もっと明確にしていただきたいと思います。その上に立って、本当に我々も今、公的な機関として教育情報の公開に踏み切って努力しているわけですから、国立大学もファンディングと言うのだったら、補正予算の配分も加えた大学ごとの正確な情報公開をしていただければ、おのずと人材育成とファンディングとの関係は、大方の人が判断してくれるようになるのではないでしょうか。
 それから、一旦踏み出した施策は、続けていただきたいですね。教員養成の問題とか、認証評価機関の問題など悪いことではないはずですから、改善しつつ継続して社会に定着させるようにしていかないといけないだろうと思うのですね。それを、あれがいいだろう、これがいいだろうと、あまり短期間に成果の検証を十分にしないで新しい施策をどんどん出されると、簡単に言えば、力のある大学はいいのですけれども、余裕の無い大学は疲れてきてしまうのですね。この辺りは消極的な考え方かも知れませんが、別の委員会等でお考えいただきたいと期待するところです。
○柴 この間、文科省の私学助成課の方から、財務省との予算折衝の中で、資産運用している大学、お金をいっぱい持っている大学があるという話がありましたけれども、国民は多分同じ考え方を持っている可能性があると思うのです。新聞にそれしか出ませんから。ですから、私学が安定的な教育をするためにこういうシステムでやっているのだということを、政治家にも一般国民にも伝える必要があるのではないかなと思います。
○大沼 我々私学がしっかり議論をして、経費をかけてでも教育に対する意見広告を打ち出していくくらいのことをやらないといけないのではないかと思います。
○佐藤 あとは、日本の私学で、授業料をどういう根拠によって徴収しているかという積み上げの説明がきちんとできないと、いざというときには、社会から、課税もされないではないか、何もされないではないか、資産の運用もあるではないかと一方的な話になってしまいますので、やはり積算根拠の説明ができる仕組みは必要です。
 もう1点は、国私間格差の公財政支出において、私立大学学生1人当たり16万7000円で、これを増やしてほしいと。これは今、財政が難しい状況ですから、なかなか説得力がないのです。一方で、国立大学が1兆2648億円で、学生1人当たり187万4000円。これもアプローチを変えて、研究費用と学生の教育費用がどうなっているか。例を挙げると、教育費用でどういう格差があるかを示して、社会に対しては、国立大学の教育費用と私立大学の教育費用と一緒にして、教育にかかる資金については私立大学も国立大学も同じような、これは補助金と言うと問題があるかもしれませんが、交付をする、国からも負担するという新しい発想をしないといけないかもしれません。
 アメリカで言えば、教育にかかるファンディングは、自分のところの基金を持つから州立大学も含めてそうですよね。州から出ているものもありますが、研究にかかる部分はナショナル・サイエンス・ファンデーションから分配をしていくことになっています。そこは少し分けて考えるほうが、説得にはいい感じがしますね。
○大沼 そうですね。ですから、アメリカでは、私立と公立の考え方の違いは日本ほどないのですよね。住民が決めていく発想が非常に強いですから。日本では、ただ国立大学であれば安い、それは明治以来安かったから安いのですということしかないのですね。昔は、師範学校だったら先生になるからとか、陸軍士官学校だったら国家のために命を捧げるから授業料は無料でいいということがあったのでしょうけれども、ただ国立大学だというだけで安くて、私立大学だったら高いのだと。医学部に至っては極端にひどい状態なのですね。
○小出 私は、その話は先代の矢次 保先生ほかから、戦前は国立大学も私立大学も授業料は一緒だった、慶應義塾が少し高いだけだったのだというお話を伺って、本当ですかというやりとりをしたことがありました。授業料というか、学生納付金というとらえ方で、国立大学と私立大学の授業料は全然違うのですから、これは黒田先生に前々から、二つに分けておやりなさいと助言していただいているのですが…。

国民負担の低廉な教育を受けた者の権利と義務
○大沼 今日では、私立大学へ入ったらうんと高いのが当たり前みたいになっているのだけれども、何で国立大学は安いのかという理由がはっきりしていない。国立大学の医学部は、北里大学の医学部がやれない国家的重要な何かをやっているから安いのだ、それなら話はわかる。
○小出 そういうことです。その説明も一切ないということが問題なのですね。
○大沼 離島に行く医者がいないから、それを国立大学が派遣するから安いのだよというのなら話はわかるのですが、一番待遇のいい病院へ行ってしまうわけです。そんなばかなことはないですね。それが当たり前のようになっている。これは一体何だろうかということなのですね。
 今、佐藤先生のおっしゃったことで非常に大事だと思うことは、統計資料も全部国がつくっているということです。我々が必要な統計資料は何もできてない。例えば授業料がなぜこうなっているのだということを調べる手立てもない。それは私立大学全体の怠慢もあるのですね。せっかく「教育学術新聞」があるのですから、これを有効に生かしていきたいと思います。
○黒田 私学の立場でね。
 国立大学と私立大学の授業料格差の問題は、古くから言われ続けていますが、国立大学の授業料は国の機関である国立大学の施設(営造物)使用料であり、教員人件費や直接教育費、研究費を負担しているのではないといわれています。一方私立大学は、設置者負担主義と受益者負担主義を理由に全ての経費を授業料で賄っています。国立大学は当初より、国家枢要の人材を養成することを目的としていましたが、大学進学率が50%を超えユニバーサル・アクセス時代に入り、その目的がなくなり、国立大学も法人化され、企業的手法を取り入れた経営になってきています。国立大学の授業料のあり方を見直す時期に来ているのではないでしょうか。また、職業選択の自由といわれますが、国民負担による低廉な教育を受けた者の個人の権利と義務の考え方も再考しなければなりませんね。
○佐藤 最初に柴先生がおっしゃった公立大学の問題についても、各地方自治体が財源に困るとか財政が逼迫しているのを、一部分を奨学金に、自分の県民のための奨学金として私学にどんどん出せば、よっぽどお金はかからないですよ。
○大沼 だから、そういう提案を我々がしないといけないのですよ。
○福井 そのためには、私学独自のデータが必要ですね。
○大沼 考えてみたら、文科省から出たデータだけを頼りにしているのではなく、これを分析しないといけない。
○福井 せっかく私たちは教育情報、財務・経営情報を公開しようとしているのですから、それも十分活用できるのではないでしょうか。
○黒田 国の資料は、国がやってきたことは間違いないよと言いたいための資料ですから分析が必要でしょう。
○柴 例えば私立大学のお金のあり方について、減価償却とか退職給与は何のためにあって、ということを同じフォーマットで全部の私立大学が載せるとかして、わかるようにしたほうがよいと思いますね。
○小出 それはよくわかります。昨年の対応課題の一つに「情報公開」の問題がありました。私大団体と私立短大協会とで共同研究を行い、私学団体としてガイドラインを示す形で、その中間報告を公表しました。教育情報の公表については、本年4月から法律が施行されます。多様化する高等教育について自ら進んでその特色や内容を自発的に公表していくことは、本来大学自体の責務でありましょうから、その取組みが促進されていくことも期待したいものです。法による義務化にはいささか疑問も感じています。他方、私ども財務情報の公開に関する研究をしていた折、学校法人会計基準が難しいからわからない、だから、これを企業会計と同じにすべきだという意見を聞きました。財務情報の公開は、経営問題に直結してナーバスな問題ですから、私どもとしては、風評被害の回避などに注目して、それにしても用語などをわかりやすく解説していくことを基本にガイドラインを示したわけです。
○黒田 国立大学のほうがよく書いています。ホームページを見ると、費用はこういうふうに使われましたと書いてある。難しい勘定科目は横に解説を付けてあります。だから、その勘定科目の中で何に使ったかを正確に書いてあります。私立大学の情報公開においても参考にすべきです。
○福井 それには柴先生がおっしゃったようにフォーマットをつくっていただくといいですね。しかし、先生方がおっしゃったことで話が進んでいくと、二号基本金、あるいは三号基本金の必要性については、社会的なコンセンサスが無いと誤解や混乱のもととなるのではないでしょうか。
○大沼 昔の学校法人の経常部と臨時部があったでしょう。ああいうことにすると非常によくわかるのですね。国が臨時部と経常部が一緒の予算になっているから、むしろ混乱を大きくしている。ですから、経理の改定で、せっかくわかっていたのをよくわからなくしたという感じを持っている。
○小出 ありがとうございます。
 大きなパラダイムシフトというテーマを掲げましたが、皆さんから最後にもう一言ずつ何か。

一極集中により、東京でしか「物が見えない」
○黒田 日本の大学教育が混乱しているというのは、要するに中央と地方の問題なのです。中央で決められたことが地方で適用しようにもできないという状態にあるのですね。ですから、大学設置基準の問題も、どんなに集めても少子化で20名しか来ないところに40名を最低限度にした基準が適用されて、教員をたくさん張りつけなければならない大学は、採算がとれるわけがないのです。だから、20名しか来ない大学であってもその地方では必要であり、重要な役割を果たしている大学は20名で成り立つシステムを作るということは、中央としてはやっていかなければならない。そういうことが私大協会で具体の提言ができる仕事だろうと思うのです。
 日本の硬直化した社会の中で一番重要なのは教育なのです。教育のあり方のグランド・デザインが国家としてでき上がらない。何年も言われているのですが、いまだに示されていない。ここに問題があるのです。人材をどう養成していくか、日本の国をどういう国家にするのかが示されてないものですから、それぞれの立場で勝手なことをやってきている。特に国立大学は、自分のところがよければいい、大きい私立大学も自分のところに集まればいいということで、どんどん学生定員、学部を増やしてやっている。日本の社会では、政治、経済、大学教育の東京一極集中が益々進行し、とにかく東京でしか物が見えない。先日も大阪へ行って話をしていたら、大阪で生まれた企業でも本社がなくなってきているというのです。大阪に本社がなくなり、全部東京へ集まってしまい、日帰り圏で、事務所すらなくなってしまったと言うのです。そういう状態で大阪をどう再興するか。「経済の大阪」と言われた大阪がだめになっているのはそこにあるのですね。
 それに引きずられて一部の大学を除いて大学がだめになっているとのことですね。だから、大阪の中で大学が何校生き残れるかが、今最大の議論になっているということだそうです。ああいう大都会の中でもそういうことが起きているのですね。ましてや地方大学だったら大変なことなのです。地方では工場誘致に失敗した空き地に公立大学をつくっているわけでしょう。急激に公立が増えたのはそこなのですね。だから、それとどういう接点を持って私学が生きるか。私立大学でやれることは私立大学でという、それをまず前面に打ち出していかなければだめだと思います。地方分権とよく言われますが、地方の大学の役割は何か、地方で出来ることは何かを地方の大学自らが具体的に提言していかなければならないと思っています。
○小出 地方からも色々な声がそれは要望であったり意見であったりするのですが、今事務局のほうに入ってきています。

多様な私立大学への理解求める活動が重要
○福井 グランド・デザインについては、大いに期待したいですね。これは前から言われていることだけれども、結局教育全体が右往左往するのは、やはり軸がないからだと思います。規制緩和、市場原理と教育の長期展望、すなわちグランド・デザインは全く別物です。これから、私立大学の団体の存在価値をもっと自覚し、大切にしなければいけない。これまでは、社会に対し私立大学のことを理解してもらうのは困難だという先入観が強かったのではないでしょうか。もちろんそれ自体困難なことは事実でしょうが、何もしなければ変わることも無いので、むしろ情勢はさらに厳しくなるのですから、私立大学の努力をもっと社会へ周知する、いわば広報活動を強化する必要があると思います。
○佐藤 今、お二方の先生の指摘の点、私学が597大学あって、1番学生数が多いのは日大の7万6000人ぐらい。一方で、身延山大学とか東京神学大学などは、100人、200人でしょう。ところが、評価をする場合にも、それから大学設置基準も、一つの物差しに当てはめようとしていますよね。これだけ多様なのだから、多様さが強まるような基準とか評価の方法を考えていかないと、これからも同じように金太郎アメで、特色も何もないという大学を作っていってしまうので、そこら辺は色々議論をして変えていく年にしたいなと思います。さらに、日本私立大学団体連合会に設置された「私立大学21世紀委員会」でも新しい時代の大学の在り方について、我が国の長年にわたる制度に言及するときの国公私立大学という考え方から、私立大学が基本となる「私国公」へのパラダイムシフトが必要であるということ、その中にあって、私学の大学団体は、社会の求める多様化された要求に、如何にそれぞれの大学が答えていくかという課題について、大いに考えていかなければならないと考えております。
○小出 柴先生、いかがでございますか、もう一言。
○柴 とにかく次の新しい大学を作る第一歩の年にする戦術をみんなで相談して打ち出していく最初の年にしたいなという気持ちがあります。
○大沼 司馬遼太郎さんの著作の中でよく見かける「日本人は、どうも、文化とりわけ思想や宗教は外国から入ってくると思っているふしがある」という一節がありますが、私も同様の歴史的認識を感じます。
 ですから創造的に自国の風土や歴史から、固有の文化を作ることより、輸入された文化、とりわけ思想や哲学、宗教などを勉強し、また分解、選択し、優れた部分を巧みに取り入れているように思います。その典型的な例が明治維新であり、第二次世界大戦後の時代だと思います。
 その輸入したものが、どのような形で日本に定着し、また違ったものになっているのか、何を輸入しなかったのか、それまでに培った日本の文化とどう違うのかを検証しないといけないと思います。
 そこで、これからの高等教育のパラダイムを考えるために広く意見を聞き、今日までの学校教育の変遷を踏まえ、その方向性を認識し合う必要があると思います。
 高等教育段階にある、大学院、大学、短大、高専、そして一条校外の専修学校・各種学校の存在をどのように整理し、ポストセカンダリー教育と位置づけるのか、また、大学教育とは? 職業教育とは? 教員養成とは? 研究とは? そして、国立大学、公立大学、私立大学等の基本的課題、都市と地方の問題など、誰もが常々感じている課題を何とか一つの方向に整理する必要があります。
 これらを審議するため、私大協会でも日本私立大学団体連合会の「21世紀委員会」構想に合わせて、その検討を積極的に進めたいものだと思っています。
 そんな意味でも、今年は極めて重要な年となりますので、私大協会会員校の協力を得たいし、私大協会附置の私学高等教育研究所の機能を強化したいと思います。
○小出 色々ありがとうございました。
 今、オール私立大学で、私立大学21世紀委員会も立ち上がってきました。そこで、今のこのパラダイムシフトをどう実現していくのかという話題が俎上にのぼりかかったところでございまして、今日はそれの先導をいたすようなご議論をちょうだいしたなと思います。多様な私立大学が多様な機能を活かして都市と地方部とを問わず、日本の新しい先導役を果たしていただくということを大いに期待申し上げて、この座談会はお開きにさせていただきたいと思います。ご指導とご協力ありがとうございました。(おわり)

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