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平成22年11月 第2421号(11月10日)

新刊紹介
 「二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道」
  山崎光夫 著

 明治の青春譜でもある。横井玉子、佐藤志津という女子美の2つの星の生い立ちから書き起こす。時代は寛永から明治。福沢諭吉、島崎藤村、徳富蘇峰・蘆花、横井湖南ら巨星たちが2人のそばにいた。
 手に火傷を負った11歳の玉子は志津の父の佐倉順天堂(千葉)で治療を受ける。退院の日〈お大事に…志津も無事を祈ってお辞儀した〉と志津が見送る。2人は言葉を交わしていない。
 玉子36歳、志津39歳のとき絵の展覧会で邂逅。〈2人がいなかったら今日の女子美はない〉という筋書きのないドラマが展開する。
 玉子は〈東京美術学校が女子を締め出している現状を憂え、美術学校で女子の自立の道をつけたい…〉と、1901年、東京本郷弓町に女子美術学校を開校する。
 しかし、生徒は集まらず、出資金返済などで経営的危機に。玉子は〈あの人に相談してみよう〉と志津を訪ね「女子美術学校を救ってください」。
 〈学校を引き継ぐ契約を交わした志津は病院で診察を受けるよう何度か誘った〉。玉子の体はがんで蝕まれていた。1903年、力尽きる。享年50。
 学校を引き継いだ志津は〈美術学校として教育界に確固たる足場を築く〉。その後校舎を火事で失うが、本郷菊坂に新校舎を建てる。〈志津は自分の着物を脱いで学校に着せた〉といわれた。
 1919年、志津死去、享年69。あとがきにある〈女子美術大学の生みの親が玉子で、育ての親が志津〉に異論はない。
(狸)

 「二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道」  山崎光夫 著
 講談社

 定価 1800円 税別

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