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教育学術オンライン

平成22年1月 第2385号(1月1日)

高等教育の転換と私学の役割
  知の時代の私学の使命

 平成22年の新春を迎え、本紙では「高等教育の転換と私学の役割」をテーマに、日本私立大学協会の大沼 淳会長をはじめ、別掲の6氏による新春座談会を開催した。一昨年からの厳しい金融危機、そして、政権交代による不安定な政治情勢の中で、18歳人口の減少等もあり、私学経営もまた危機に直面している。戦後60余年を経た今日、旧来の高等教育に係る枠組やシステム等を根底から変革するようなパラダイムの転換が求められている。もはや、小手先の改革では中長期的な展望を描くことは難しい。その意味で、中央教育審議会で審議している「中長期的な大学教育の在り方について」の議論には、大学の機能別分化等を前提として、大いなる変革を期待したい。私立大学は全学生の約77%の人材育成という重責を担っており、その責任を果たすための大学団体の取組みのあり方、また、私学助成等の私学振興の推進などについて議論を深めていただいた。

出席者
 ▽大沼 淳氏=日本私立大学協会会長/文化女子大学理事長・学長
 ▽黒田壽二氏=日本私立大学協会副会長/金沢工業大学学園長・総長
 ▽柴 忠義氏=日本私立大学協会常務理事/北里大学理事長・学長
 ▽佐藤登志郎氏=日本高等教育評価機構理事長
 ▽瀧澤博三氏=日本私立大学協会附置私学高等教育研究所主幹/帝京科学大学顧問
 ▽小出秀文氏(司会)=日本私立大学協会事務局長

高等教育の構造転換と私学振興
大学の役割分担と機能別分化を

近代化150年の歩みとターニングポイント
○司会(小出) 新年、明けましておめでとうございます。
 「教育学術新聞」の新春座談会は、統一テーマとしまして「高等教育の転換と私学の役割」、サブタイトルに「知の時代の私学の使命」を掲げさせていただきました。
 私立大学は、全国の津々浦々、北海道から沖縄に亘る各地において、建学の精神を高く掲げ、地域の知の拠点、文化の継承・創造の拠点として多様な価値追求を目指しています。また、今日の少子化やグローバル化・高度化・成熟化社会の到来のもとで多くの困難に直面しつつも本領とする創意工夫の自主的努力を発揮して健闘されています。しかし、年々歳々、その厳しさは一層増しております。
 政権交代等、歴史的な大変化も文教政策、特に高等教育政策に大きな変化を予感させますし、全国各地の私立大学からは、その存続・発展に係わる文教政策上のさまざまな期待や要望が寄せられていることも事実です。
 平成22年の年頭に当たり、時代の進展と国民の期待に応える私立大学をいかに創造するか、我々は今、何を成すべきか、時代の諸相は如何か? 私立大学の新たな展開への指標を包括的にお話合いくだされば有難いと存じております。
 それでは、激動の昨年を走り抜けてのご感想や新年の抱負を語っていただくことから始めさせていただきましょう。大沼会長からお願いいたします。
○大沼 明けましておめでとうございます。
 今、小出さんから話がありましたように、いろいろな点で方向転換の時代に来ています。現在の教育の課題は、西洋から輸入した、いわゆる近代化教育が日本で普及し始めて、ちょうど150年経ちますが、大きなターニングポイントにあるのではないかと私は思っています。
 今日、ユニバーサル・アクセスと言われるように、高等教育はもはやエリート教育の場ではなくなりました。昭和33年ぐらいまではよかったのですが、それからのち進学率が増え、専門学校も生まれて、80%の人が高等教育を受けるようになりました。社会構造も変わっているのに、それに対応した高等教育がまだ確立されていない、と逆に思った方がよいと思います。
 もう一つ大事なことは、それまで我々が根っこにしてきた国公私立大学の区分もごちゃごちゃになって、今どうしようもなくなっている。また、専門教科などヨーロッパ的な学問体系がほとんど通用しなくなって、新しい社会に向かってどう展開していくかも、しっかり考えていかないといけない。学問も、旧来の延長線上では、もはや議論ができなくなってきているのではないか。
 最大の問題は、これからの教育ファンディングです。近年は、税収が少なくなっていますから、何をやるにしても税収以上の借金をしないとできない社会になっている。にもかかわらず、考え方としては昔のままを踏襲しようとしている。そこにすべての行き詰まりの原因があるのです。こうしてたどってみて、今が最大のターニングポイントになっているにもかかわらず、そういう自覚が全体的にないのではないか。古い考え方から、どのように新しい方向変換をしていくか、その基本的な事項を論じないといけないと思います。
 民主党へ政権が移ったことによって、新しく切り換えることができるのか、あるいはそういう考え方だけでは律し切れないのか、それも大事なターニングポイントになっていて、その中で色々とどのようにしていくかを考えないといけません。
○小出 ありがとうございます。
 今の大沼先生のご提案を出発点にして、これから先生方からもお話を伺っていきたいと思います。
 黒田先生からいかがでございますか。
○黒田 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 中教審が「中長期的な大学教育の在り方について」という一次報告を出しました。副題として「大学教育の構造転換に向けて」と書いてあります。これは、今までの大学教育はもう日本の中で通用しなくなってきている。だから、それをどうしたら転換できるか今模索している。この副題は、そのためについているのですね。
 日本の大学教育は、これまで国立大学中心に莫大な予算がついてきました。GDP比では0.5%しか高等教育費を使っていませんが、学部学生の77.4%を私立大学で受け持っています。その教育費は家庭が負担しているわけで、国はその分非常に安上がりな教育を行ってきました。にもかかわらず、私立大学が脇に置かれたような教育行政がなされてきたことに大きな問題があるのだと思います。

国際的通用性と機能別分化の方向
 また、グローバル化の中で、日本の大学教育が国際性を持つにはどうしたらよいか。一方、700以上ある大学がそれに該当しなければならないかという問題があります。これは、「機能別分化」という表現で全ての大学ではないことを暗に言っています。研究中心で国際的に競争できる大学もあれば、地方に根差し、地域の活性化のために役立つ大学もあるということで、相当な幅を持たせています。それを一つの設置基準でコントロールしようとしている、そこに無理があります。だから、場合によっては設置基準そのものも変えていこうという話も出ているわけですが、これはまだまだ時間がかかると思います。
 それまでの間、何が中心になるかというと、自己点検・評価の問題です。どういう学生を集めて、どういう教育をして、どういう学生を世に送るのか、各大学で定めた目標・目的、ポリシーを社会に公表して、それに従って自己点検・評価した結果、掲げている教育目的にどれだけ近づけて学生を世に出したかが評価の対象になる。ですから、評価の物差しは大学ごとに異なります。今後、それを行うために公の質保証システムを作り上げようとしていますし、また、それに対して各大学で、個々に質保証システムを構築して下さいと言っています。その二つが相まって、その大学が社会に必要になる方向性を出そうとしているわけです。
 ですから、多くの大学が、それぞれ目的の異なる大学になることを目指していると思います。それが大学教育の転換なのですが、もう一つが国際的な共通性で、現在、OECDのAHELO(高等教育における学習成果の評価)が中心となって、学習成果の評価をしようとしています。ですから、そのうち「国際的に通用する学生が育っているか」の物差しができると思うのですが、それに日本は参加することを四年ほど前に決めました。その準備が今進められています。日本の場合は、比較的系統立って教育しているのは工学分野だから、ここからそれに応じていこうかということになっています。従って、工学分野は相当具体的な議論が進んでいます。
 そうなりますと、AHELOの評価にのれる大学とのれない大学という二つの極ができてくる。それを今後どう扱っていくのか、国内的に議論が起きてきます。予算も限られていますから、すべての大学に十分な資金を投入することは不可能になりますので、それぞれの私立大学は自立できるくらいの努力をしないと、今後生き残っていけないのではないでしょうか。
 そういうことが、先ほど大沼先生が言われたターニングポイントの中での現在の動きといいますか、大学教育の質をどう転換させていくかの一つの大きな課題になっていると思います。
○小出 ありがとうございました。
 ながらく中教審大学分科会等のご審議に携わりながら、それを振り返って大学の今日的課題についてダイジェストにまとめて頂きました。具体的課題やそれぞれの方向に関する問題は、のちほど先生方からご議論を深めていただきます。
 では、柴先生、続きましていかがでございますか。
○柴 明けましておめでとうございます。
 昨年、政治体制が60数年ぶりに変わって、国民が気づいたことはたくさんあって、それは良い面も悪い面もあるのだと思います。先ほど大沼先生が言われたターニングポイントは、そういう意味だったのだろうと思います。同時に、昨年を含めたここ2〜3年は18歳人口の減少によって全入時代となり、大学のあり方をこれからどうしていくかと議論する、そういう意味でのターニングポイントでもあるのだと思います。
 私自身は、大学のあり方―例えば、よく私大協会の中で言われる、旧7帝大が完全に大学院大学化するなどして、エリート教育に特化するというお話がありましたけれども、そういう方策も一つのあり方だと思います。
 その一方で、私立大学は約600校ありますが、これからの時代、それぞれの特色を出して、競っていくことになると、どうやって自立して中身の充実を図っていくかが問われているのだと思います。
 それから、昨年、質の保証が提起されていますが、これは現在の初等教育、中等教育、高等教育全体の反省の上に立ってのことだと思います。質の低下が裏にあるから質の保証が問われていると思うので、これは教育の受け手、あるいは教育を担う側、両方が反省点に立つ。そういう意味でも、昨年がそのターニングポイントになっている気がします。
 ですから、初等中等教育のゆとり教育というあり方の解釈のゆがみというか、そういうところでの振り子が反対側に振れてきているわけですけれども、高等教育も自己点検・自己評価という先ほどの黒田先生のお話にあるように、各々の大学がきちっとした点検・評価をして、質を高めていくことが非常に大切だと思っています。
○小出 ありがとうございました。
 いずれも重要なご指摘ですね。後ほど、只今のご指摘の高等教育の在り方、特に量と質とにつきまして、ご議論を深めていただきたいものです。続きまして、瀧澤先生よろしくお願いいたします。
○瀧澤 明けましておめでとうございます。
 高等教育政策が今どういうターニングポイントなのかを考えてみますが、一つは、ご承知の構造改革、規制改革が中心で、ここ十数年は外圧主導の大学改革でした。時が経って、今全体的にやや反省期にあると思いますが、新しい政策の方向を定めるには過去の政策の十分な評価を経る必要があると思うのです。高等教育の分野で規制改革政策の何が成功で、何が失敗だったかを見極めないで次の転換に入っていくのは問題だと思うのですね。そのあたりの議論がないことを不思議に思っています。
 とくに質保証の分野で大いに問題が残っています。今、黒田先生がおっしゃった、私立大学が脇に置かれているという問題も、市場主義に偏った考え方としてこういう結果になっていると思うのです。1000を超える高等教育機関の配置については、何かしらの原理原則があって誘導する政策が必要ですが、正面から議論がされていません。政策的な調整は一切要らないという判断が正しかったかどうかは、私は議論の余地はないと思うのです。
 もう一つ、行政と大学との関係が大きく変わってきたと思います。今まで行政は、一般的に外側の制度的な枠組みを対象にして、教育の中身に関しては抑制的な態度をとることでうまくいってきたのです。最近は、グローバルな競争の激化とともに、大学に対する期待が大きくなり、その反面で不満も高まっている。そういう風潮は世界的なものだろうと思います。ということで、行政の態度がかなり変わってきている。行政が教育の中身、内容自体を操作する方向に来ていると思うのですね。教育の質そのものが大学改革の主題になってきたわけで、こういう時代の行政と大学の関係はどうあるべきか、新しい観点で考える必要があります。
 今、GP(グッドプラクティス)予算がありますが、あれはまさに教育内容の政策的な誘導だと思います。同時に機能的な分化を促す手段という意味も持たされていると思います。それを政府主導でやっていくのは、ある時期には必要性があったかもしれませんが、そのまま定着していいものではないのですね。GP予算の獲得競争の陰で、本当に内発的な教育改善の努力がディスカレッジされる懸念もあり、メリットとデメリットの見極めをしないといけません。
○小出 ありがとうございました。
 ご専門の高等教育政策や行政を俯瞰しながら昨今の変化を的確にご指摘いただきました。GP予算に関しては若干の異論があるのですが、これはまた、高等教育への公財政支出のあり方のところでもう一度ご議論を深めていただこうと思います。
 では、続いて佐藤先生お願いします。
○佐藤 新年、明けましておめでとうございます。日本高等教育評価機構という立場でお話しさせていただきます。

教育問題は百年の計
「不易と流行」の視点で

 まさに政権交代はターニングポイントであります。しかし教育の場は、それによってすぐに影響を受けるべきものではありません。数年前のこの座談会で松尾芭蕉の「不易と流行」という言葉を伺い、多くの方が同調されました。特に私学は建学の精神・創設の理念をひたすら守りつつ、その時代の要請も弁えながら、教育・研究そして地域貢献を成してきたことは誰もが認めるところであり、本機構で評価させていただいている私立大学は例外なくこの事を堅持しておられます。私立学校法でいう「自立性を重んじ公共性を求めて」いる訳であります。もちろん学問の進展や社会の変革によって学生に教授伝達すべき情報は変わって参ります。しかし人間の尊厳と義務に関わることは変わるものではありません。本機構がまず「教養教育」について伺っているのもそのためです。
 為政者もその事を理解してほしいと思っております。高等教育に限っても在学中の数年で成果が明らかになるのではなく、卒業後60年経って、はじめてわかるものもあります。教育は長い目で見なければならない活動であるわけです。
 ところで、本機構では、ほとんど私立大学が受審大学でありまして、昨年まで約120大学の評価が済んだわけですが、これから今年、来年を含めると約300に近い大学に評価を受けていただくことになります。そういう中で、これが終わったときに受審大学の許可を得て改めて、日本の私立大学全体の様子をまたご報告したいと思っております。
 約半分の大学を評価してきてわかったことは、建学の精神、そしてまた、その時代時代に応じて教育の方針を検討されて、それに沿って教育をやっているということが十分に理解でき、その点は、大変、私立大学として立派だといいますか、本来やるべきことをおやりになっていると理解しております。
 ただ、質保証に関連してPDCAサイクル、即ち内部監査を含めた自己点検・評価につきましては、必ずしもすべてそのようになっているとは限らないということもあって、例えば、PlanとDoまではいくのですが、そこの反省を組織的に使って動いているところまではいかない点はご指摘させていただいて、第一周期を終わりたいと思っています。
 今のグローバル化が現実になった10年前から、欧米諸国の教育界からは随分いろいろな危惧が出されていたと思います。特に、医療・社会・福祉の後退の問題でそのことがだんだん現実になっております。しかし我が国の大学、特に私立大学が、例えば、高齢化社会に併わせて福祉などの方向に非常に力を入れているところではございますが、残念ながら、まだ社会体制がそれを受け入れるところまでいっていない面もあり、困難な状態が社会・教育両面に出ております。
 かつてベルリンの壁が壊されて、社会主義国家が崩壊して資本主義が単一の社会の原理になったとき、まさにターニングポイントだったと思うのですが、次第に競争が極端に進み、多くの弱者が苦しんできました。今、心の病に悩む人は多く、自殺者も増えております。何事も極端に走るということでは、人々は幸せになりません。私は福祉先進国であるスウェーデンの標語「ほどほどに、悲しみを分かち合う」という言葉を若い人々に伝え、競争の勝利者を目指しつつ、敗者・困窮者とも同じ目線で悲しみを分かち合うことの必要性を理解してもらっています。そういう意味で社会主義でも資本主義でもすべてのことにおいて、偏るということは国民、人々を不幸にすることになるのではないでしょうか。
○小出 ありがとうございました。
 大沼先生、そのターニングポイント、基本の基本と言われるあたりですが、今年、21世紀になり10年が経ちました。本日の座談会の基調というか本質、最大の関心を払っている点でございます。社会の大激動の中で社会システムとしての学校、大学制度のもと、これからの方向性としてどのような点が重要であるとお考えになりますか、これからの高等教育に託するものは何なのか、できればそのあたりのお話をもう少し伺いたいのですが。
○大沼 明治以来、いわゆる先進国になるための近代化路線の役割が終わって、成熟社会に向けた人材育成をどうするのかという視点が欠落しているのではないか。そういう視点から見ていくと、国立大学や公立大学とは何を果たすべきなのか、あるいは私立大学はどうすればいいのかをきちんと考えていかなければいけません。例えば、「公立大学は必要なのか」という話も耳にすることがありますが、これからは、都道府県にある課題はむしろ国立大学ではなくて公立大学に任せてもよいのではないか。要するに国立大学は知事とか地域社会の人たちと交流できない、国の直轄でやっていることに、いろいろな問題点が存在していると思うのですね。知事が何も言えない高等教育機関、知事が何かやろうと思っても、自分の地域に研究機関すら持たせてもらえない。明治時代は、急成長を目指していたからそれでもよかったのですが、今そんなことをやっていていいのですかと私は感じます。したがって、旧7帝大に相当する新大学区をおき、大学院教育を中心にした高等教育機関を国立大学がやればいいのであって、あとは公立大学に任せればいい。
 もう一つは、そういう公がやるべき大学以外で、私人がやってできることは私立大学に任せばいいと思うのです。先ほどの国・公・私立の枠組みだけ決めて、教育の中身をとやかく規制をしないほうがいい。質の保証と言うと、何か国立大学の質だけがレベルが高いというニュアンスが強い。今日では、だれもが高等教育に来ているわけですから、高等教育は知的な能力だけがあればいいのだという時代ではなく、技術力とか、社会への適応力があるとか、あるいは感性が非常に高いとか、そういう能力も極めて重要な社会になっている。にもかかわらず、そういうことに対する考え方がまったく議論されない。
 一番中心になるのは旧制度で確立した大学令で、大正7年に確立したときに、日本の大学は入試を重要視しているのです。その試験は、恐らく世界一公平だったと思います。どんな家庭に生まれようと、試験をパスしてくれば全員公平に社会の中で扱ってくれたという素晴らしいシステムを大正時代に確立しているのですね。
 素晴らしいがゆえに、問題を多く残したのだと思います。そしていまだにそこから抜け出せない。昭和22年に作られた学校教育法は、アメリカのシステムを導入しているから、小学校を出なければ中学校に入れないし、中学校を出なければ高等学校に入れないし、高等学校を出なければ大学へ入れないし、バチュラーを持っていなければマスターに進めない、というように全部ディプロマシステムで組んでおきながら、それを完全に実行してないのです。まだ旧制大学の大正7年の学区制のままの考え方の中で入学試験は行われ、教育も行われ、選抜も行われる。ディプロマシステムが完全には生きていないのだから、例えば中退者が多いのは良いのか悪いのかと議論しても、決まらないのです。
 要するに入学させた以上、大学の責任だから、そこでちゃんと卒業させなさいということですが、本当のディプロマだったら、入学させても、合格ラインに達しなければ落第させて、合格した人だけ残して、そこで決めた単位をきちんと履修しましたよとすれば、それが質の保証なのです。それさえきちんとしていればいいのに、そこに疑いを持つから、結局、質の保証をしていないということになる。その制度、枠組みができているのに、その枠組みどおりに実行していないところに問題があるわけで、中退者が多い大学でも、そこへ行きたいのだという学生はその大学を選べばいいと思うのです。

行政は枠組を整備し中身は現場に任せる
 ですから、その基本論を整理しておいてやらないと、学生の進路やその他についても問題があるので、先ほど瀧澤先生がおっしゃった、行政はこの枠組みをきちんと整備をしてやらないといけないのにそれを放棄して、逆に質の保証というと中身に入ろうとしている。それは大変困難なことです。だから、中身は当該大学に任せればいいのです。
○小出 2010年の新春に相応しい本質論のご指摘のように感じました。わが国の大学教育の現状、基本的な状況として、本年5月現在で大学・短大への進学率が56.2%、同じ世代は二人のうち一人(以上と言うべきですが)は必ず大学、短期大学へ進学する時代になっている。そのような時代における大学のあり方は、当然のことながら、明治期以降の富国強兵、殖産興業の時代のときに急ぎ整備された教育制度とは全く違ったものが必要になってきているのですね。
 私はしばしば「百花繚乱の私立大学が高度かつ多様な成熟社会を牽引する原動力である」と述べ、高等教育環境の、特に行政や政策の大転換の必要性を主張しています。
 黒田先生、確か21世紀型市民の養成を行う場所がこれからの大学だという答申がありましたね。その答申では、私立大学の多様性への期待と質的充実の必要性とが強調されておりましたが、このあたり、21世紀の大学制度、あるいは新しい21世紀型市民養成の場としての大学の目指す方向性について今一度お話を伺っておきたいのですが。重要なご指摘が会長からあったと思うものですから。
○黒田 今、大沼会長からお話があったことは非常に重要です。「国立大学でやっていることがいいことだ」と進めていることは、中教審でも否定され始めています。これからは、それでは駄目なのだと。「学部」とか「大学院」という表現をとらなくなり、学位課程に基づくプログラムを作って下さいという議論になったのはそういうことです。伝統的学問だけが学問ではない。21世紀の知識基盤社会の中でほとんどの人が生活をし、家計を支えるわけですから、昔のように10%ぐらいのエリートを教育するような、研究者養成のような組織をいまだに維持している、そういうものは特定の機関だけでいいのだという考え方です。
 これも表面化すると、恐らく皆さん大反発が出てくるのだろうと思うのですが、エリート教育の大学と一般の市民教育の大学を差別化しようということなのですね。その中で、自分の大学はどの位置に立てばいいのかを各自で判断して下さいと。これをあまり大きく言うと、公平ではない、平等ではないという話になるものですから、なかなか表面には出てこない。これは、今議論を始めようとしている中教審の大学規模・大学経営部会で一番難しい問題なのですが、やらなければなりません。大学の規模は、全国に配置した場合にどれくらい必要なのかから始まるのです。どんなに小さい地域でも大学は必要です。なぜなら、その地域の知の拠点であり、産業や文化形成の拠点としての役割を果たすのが大学だからです。
 国立大学は、昨年の次期中期計画の中で、機能別分化をかなり強く打ち出しています。「それを書かない国立大学に予算はつけない」とまで言っているのです。ですから、それぞれの地域の国立大学が何を目指しているかを表明して、どうしていくのか、が重要となります。
 これからの国立大学は、東大ではない大学づくりをやろうとしている。だから、私立大学も当然ながら、各地域でどういう方向づけをするかが非常に重要で、それは今、国立大学以上に必死にやっておられると思います。
○小出 ありがとうございます。
 私は、今から7、8年前でしょうか、喜多村和之先生や黒田先生、そして桜美林大学の佐藤東洋士先生とアメリカの高等教育機関の調査団にご一緒させていただきました。その時の強い印象に残る話ですが、アメリカの高等教育機関は、2500とも3000余りとも言われておりまして、極めて多様で、その実態もダイナミックでした。最近、大学の規模や在り方に関連して人口1000人当たりの進学率がしばしば話題になります。日本は23.5人(アメリカ36.5人、フランス36.6人など)で、まだまだ伸ばしていける余地があるのだというお話もあった。それはアメリカと比較することによっての余地があるというお話と、他方、私がこの数年来に予算要望等のロビー活動などで国会等を回ったときに、「日本の大学の数は多過ぎてね」とか、「一つの物差し(大学設置基準)で決めた大学の内容で、全部を大学と言い切るのには無理がないか」というお話まであり、大学設置基準をもっと多様化すべきではないかというようなお話も出てきているのですね。

多様な価値追求の私大の機能別分化
 大学の機能別分化、たくさん花開いている多様な価値追求の私立大学が存在する状況、あるいは国公私立大学全体を通した大学像の中での機能別分化という、今、黒田先生がご提案になったお話、これからの日本の高等教育の姿、在り方の根幹にかかわってくる話だと思うのです。柴先生、この問題に関してもう少しお話をいただけませんか。
○柴 私立大学が現状で多いかどうかの議論より心配なことは、昨今、志願者確保が第一で、それぞれの私立大学がその個性・特色を考える以前に、志願者が確保できそうな特定分野の学部・学科への改組転換や名称変更に目を向けてしまったり、経営が極端に優先されることが散見されることです。これは、私立大学全体が、健全で持続的な運営が行われ、個性と多様性を持つ教育・研究という観点とは少しかけ離れたことではないかと危惧しています。
○大沼 (一つの大学を基準にする)富士山型の教育システムではなくて、(多様な大学が連立する)八ヶ岳型にしなければならない時代が来ています。人間の能力は、例えば知的能力が非常に高い人、感性的能力が高い人、情緒的な要素が高い人、あるいはリーダー的タイプだとか、細かいことができるタイプだとか、質的に違っている能力と、それぞれが量的に違う能力がマスの目になっているわけです。そのマスの目のどこをどうやって伸ばしていくのかを各大学で決めていかないといけないのですね。
 ですから、一つの質、一つの能力だけを問うて、それが高等教育だと言うからおかしくなる。21世紀型は、あらゆる能力を持っている人が最も社会で生かされるようなシステムをつくらないといけないから、十九世紀に完成した大学というイメージの中で高等教育を律してしまうことに逆に問題があるのです。
 したがって、高等教育の多様化とか多様な能力に対応するのは、実際個々の異質な能力を高くしないと駄目な時代が来ているわけですね。例えばクリーニング屋さんにしても、八百屋さんにしても、江戸時代だとか明治時代のあり方とは根本的に違ってきています。すべて高いレベルを求めなければならない。だから、全ての人が高等教育を受けてもいいのです。極端に言えば、成績の悪い人ほど長く高等教育機関に置いてやらないといけない。高い能力にして社会に出さなければいけないのです。それが依然として、成績のいい人だけ教育すればいい、リーダーだけつくっていけばいいことになっているのです。
○小出 それは、今まで追いつけ追い越せ型の時代に求められた方針であると。
○大沼 その時代が終わっているにもかかわらず、大学では終わってないのです。しかも、すでに既得権を得た大学がそれを壊されたら困るという考えが強すぎるのでしょうね。
○小出 このお話になると、大学政策論の立場からはいかがでしょう。
○瀧澤 機能別分化については、中教審で七つの機能が示されていますね。あのように機能的な特色を持ってタイプを決めることは、およそできない話だと思うのです。七種類という出し方も、一度やってみるのはいいが、いつまでもそれにこだわっているのはおかしい。GP予算で機能別分化を促そうとしている、それが七つの機能分化を目標にしてやっているのだったら、それは失敗のもとだと思いますね。
 特色を持つためには大学は自主性を持つことが大事なのですが、今の競争的資金は、「まねごと」を広めている感じもします。みんなモデルを求めて一生懸命やっているのですよ。ある時期やって、いろいろ新しいことを考える習慣をつけるにはいいと思いますが、それを10年も20年も続けていれば、自発性、自立性、創造性はだんだんなくなって、それはむしろ多様化を妨げる要素になりはしないかという感じがしますね。

教育に対する国の責任と国公私の存在意義
 もう一つ別の話ですが、大沼先生から、近代化に伴って教育の形がいろいろ進歩してきたという歴史的なお話がありましたが、近代化に伴って、教育に対する国の責任をどう考えるかが変わってきているのだと思うのですね。最初は、国民のレベルを上げるということで義務教育から始まって、最近は高校無償化というような話が出ていますが、高校無償化をやるのだったら、国の責任がどこまでかという議論がなくてはおかしい。
 それと、非常に先進的な思想では大学まで無償化という話があって、いろいろな国際会議などでもそういう主張が出たりしているようですが、これは社会的な成熟度にもよることで、一律な考え方はあり得ないことですね。
 一方で、現実にはヨーロッパの各国は、むしろ国の責任を制限して切り離していこうとしているのです。今までは無償でやっていた大学教育を有償にして市場化していこうと。それは国の責任を逆に縮める方向の議論が行われているわけです。ターニングポイントというのは、大学に対する国の責任というか、教育に対して国がどう責任を持つのかについて、もう一度考え直さないといけない。市場主義の議論が広がって、かなり考え方を混乱させられてきたわけですから、今後の方向性はどういうことなのかという議論が必要で、国公私立の存在意義をそれぞれはっきりさせようという話もそこが基になるだろうと思います。高等教育に対する国の責任が一番基本の問題で、それをどう整理していくかが今後の方向を定めるための議論の焦点ではないかと思います。
○佐藤 私立大学の場合は、教育研究活動の基本理念があり、必ずしも国の掲げる例示に合致するとは限りません。しかし教育GPのように呼び水によって多くの私立大学が応募し、いろいろな工夫を経験したことは確かです。その後同様に続けている教育もあればすでに終わっている教育もあり、全く別の形で続いている教育もあります。経験として役立ったとは思います。
○柴 さっき小出さんがおっしゃった、受け手側、就学する意欲を18歳人口ベースではなくてもっと拡大して、社会人、あるいは退職後の人たちも大学に学びに行くという素地においては、例えば、私どもの大学は職能教育分野が多いのでキャリア教育を少しずつやっているわけですけれども、一方、違った分野の人が一八歳の人と同じように試験を受け、同じ物差しで受験結果を判定する、その辺は大学が社会人への門戸を逆に閉ざしているところがあるわけですね。別の視点から入試を行って欲しいと思っています。社会人入学の環境が、日本全体の中でまだ整っていません。ヨーロッパやアメリカとそういうところが違うのではないかと思います。
 例えば簡単なことを言えば、サマータイムのような制度を導入して、就業後、学校に行くようなことを国として整えるとか、あるいは退職した後に入りやすいような場やシステムを国の施策として行っていくなどして、専門分野などにこだわらず、それぞれの大学で、社会人が勉強していけるような環境を整えればよいのではないかと思います。
 私は決して今大学の数が多いとは思いませんので、そこで学びたいという人たちの数をちゃんと増やせる社会の仕組みをきちんと作っていくことが必要なのではないでしょうか。
○大沼 日本では、いわゆる行政ベースで枠組みをつくって、その中でどうやっていくかという路線を敷かれた中で展開してきたところに非常に問題があるのです。アメリカの社会の成り立ちを見ていると、学校は何も国家がリードしたわけではなく、俗に言う社会が形成してきました。社会というのは、広がりがあれば国家レベルになるかもしれないし、小さければ地方の州の単位あるいは市の単位になります。州であればそこで必要な産業人をつくるために州立大学が生まれてきますから、州立大学の性格自体が、州ごとの産業構造なり人口構造なりにきちんとスライドして自然発生的に生まれてきて、それが一定のレベルに達する。それがすなわち評価になりますが、どこの評価機関を受けるかによってレベルが決まってくるように、地域社会の要請でできていった。ヨーロッパもその傾向が非常に強いのです。地域社会の変化とともにつくってきたのです。
 日本をはじめアジアの国々の場合は、完全に国とか行政主導というか国家レベルとしてどうしていくかという形で発展して、それは見事に成功したと思っています。しかし、その限界点に達しているのです。ですから、今度はむしろ瀧澤先生がおっしゃるように、自主性に任せた方がいいと思いますね。
 したがって、行政は枠組みだけつくって、中身は大学の責任で、駄目なものは社会が淘汰すればいい。潰れるからとかそういうことを心配しないで、それのターニングポイントをどうするかが一番大事だと私などは思いますね。
○佐藤 大沼先生がおっしゃったことに賛成なのですが、確かに、特に私立大学は大変な苦境に陥っていまして、いろいろなことを工夫はしているのですけれども、こういう教育分野をつけ加えれば学生は何とか集まってくるのではないかということをやって、ある分野が非常にいびつに大きくなったりして、結局はお互いに共倒れになるということが今までもありました。教育は、普通の商売みたいに、「ここが売れるのではないか」と安易に流されてはいけないのです。
 本来そういうことはできないシステムのはずなのですがね。各大学がじっくり考えて、日本の社会でどういう教育分野が必要かを考えていただく。また、そのご指導は大学団体のような機関によく研究していただいて、それぞれの加盟大学あるいは私立大学全般に教えていただくことも必要ではないでしょうか。
 もう一つは、いわゆるグローバル化ですが、とにかくアメリカへ行くのだったらアメリカへ行く、あるいはドイツのこういう分野がいいと思えば行ける、あるいは日本はこういう分野がいいというので外国人が来る、そして、昔ほど困難な思いをして海外の大学へ留学しなくてもよい時代になっています。したがって、例えば先端分野すべてを一国で網羅する必要はなくなっているのかもしれませんね。また、実際に日本の大学を卒業してから世界中で活躍する方も増えてきて、子どもさんも外国で生まれて、そこで教育を受けて日本に帰ってくる人も増えています。
 しかし、戸惑っている人も随分います。日本の社会は非常に閉鎖的だと言われておりますけれども、このような時代ですから、受入れ等も変えていかなければいけない。大事なことは、今のこの日本の国土にどういう高等教育が必要かということを議論していただいて、それに私立大学も加わることだと思います。
○小出 これまた大事なご指摘ですね。国民の期待や時代の要請に着実に的確に応えていく必要な教育分野のお話もありましたが、我々は常々「諸科学の調和ある発展」を目指さなければならないと言ってきました。
 しかし、これまでは工学系分野など予算縮減の中で国公私立の各大学は間接経費等のある科研費などの競争的資金に目が向きがちとなり、経営上「採算ベース」にない人文社会系の基礎研究がおろそかになってしまうのではないか危惧しています。

科学技術と人文・社会科学の調和ある発展
 黒田先生、第四期科学技術計画関連のヒアリングを通してなど、この辺はいかがお考えでしょうか。
○黒田 科学技術・学術審議会基本計画特別委員会に呼ばれた際、私立大学として第四期科学技術基本計画に対しての意見を述べる機会を与えられ、私が対応したのですが、まず第一に、「第四期計画には、基礎研究の成果を具体的にイノベーションに繋ぐ実用化環境の整備が特に必要であり、資源の乏しい我が国が、グローバル社会の中で、国際的に確固たる地位と競争力を維持するために不可欠な要素であると考える」と述べられています。これに対して、「これらの競争力強化と維持のためには、後継者育成が重要な鍵を握る。特に学生数の約8割を占める私立大学の持つ役割は大きい。その学部段階からの人材養成の能力を活用し、引き出す施策を戦略的に構築されることを期待している」と意見を述べました。また、「第二に、国家戦略としての重点的投資は重要であるが、裾野の広い学術研究に対する振興策、支援とのバランスのとれた政策の検討をお願いしたい。第三に、人文・社会科学との調和ある発展については、現代社会が直面している諸問題を解決するためにも、科学技術と人文・社会科学との調和ある研究が不可欠である」ことを強調して私立大学の意見としました。
○小出 いろいろな話題が提起されました。私どもは、私立大学の地位の向上・高等教育の進展等をめざしたロビー活動を推進する団体でありますが、確かにGP予算の問題などには、負の面というか気をつけなくてはいけない面もあるのだけれども、これは国家財政や時代背景の中で評価されなければなりません。例えば私大協会では、これまでも生涯学習社会対応型の大学づくりのためにシニア世代を受け入れていこうとか、地域密着型の大学をつくろうとか、あるいは得意なところを持ち寄った大学の連携活動を強化していこうとか、あるいはまた環境保全活動に大いに取り組んでいこうとかさまざまな大学改革運動を提唱してきました。全国にさまざまなそれらの動きが出てきております。そういうものの一つの引き金になったのも、実を言うとGP予算だったわけですね。
 だから、それが5年も10年もというと問題があるというご意見があるのだけれども、基盤的経費の私学助成が年々減額される中で、私立大学の取組みをエンカレッジさせる苦肉の知恵出しがGP予算でもあったのです。
 それでは、私学の経営問題、公財政上の問題を先生方からもご指摘をいただいていますから、これらの今後のあり方の問題でお話を伺うことにしようかと思います。

高等教育の公財政支出と教育費格差
 冒頭、OECD調査では、日本の高等教育への公財政支出額は調査対象国の最低クラスであると言われるのですけど、私どもの調査によれば、国立大学へのファンディングと私立大学を含めた全体のファンディングの話とでは、数値の上で決定的な格差と言うか、驚くべき状況があるのですね。ですからこの点を21世紀の大学政策として一体どう見るのか。いかに改善の方策を講じていくのか、大問題が存在しているのです。これも大沼会長のおっしゃる基本の基本にかかわるお話です。即ち、国立大学と私立大学間の授業料格差(国立も私立も戦前は同じだったというお話を私どもよく聞いているのでありますけれども)や国立大学における一率の授業料設定など、いつまでこの状態を放置するのか、早い段階で是正が必要でありましょう。
 しかし、国立大学と同じものが必要と言っているわけではなくて、私学振興助成法での二分の一までの補助という枠内に限りなく近づけていく国庫助成運動はもう一度考える必要があるだろう、こんなふうに思っています。いかがでしょう。
○大沼 ファンディングは、一つは国際的比較の中で出てきているのですね。先進28カ国の中で調べると、日本が最低であると。その比率がGDP比で0.5%であるということが言われているわけです。ところが、私立大学を除いて国立大学だけで比較すると世界で一番高い。国立大学だけ高いということは、裏を返せば私立大学が最も低いとなるのです。しかし、日本の近代化の中で私立大学をこれだけ認めた国はほかにない。学生だけで比較したら、80%近い人が私立大学、専門学校を入れたら90%が私学です。進学率も先ほど来、低いというのだけど、専修学校を入れたら、世界一クラスになってきているのです。専修学校を高等教育と見ていないからそういう統計が出てくる。大学・短大・高専だけで高等教育だと言っているからそうなるのだけど、アメリカはコミュニティカレッジが入っているのですよ。この中には主婦業、家政科までちゃんと入っているのです。森林国であれば森林の消防官だとか、地域社会の中に必要な人は全部コミュニティカレッジで養成できるようになっているのです。それらを含めて高等教育の統計が出ているから高いので、日本もアメリカ並みに、あるいは既に超えた進学率になっているかもしれない。それが今のいろいろな学校に影響を及ぼしていると思います。
 私立大学のつくり方は、日本は固定資産、土地建物、財産は、早慶といえども、北里といえども、私どもといえども、全部自前なのです。一銭も国家が援助していないわけですよ。全部自前で運営しているわけですね。補助があるというのは、人件費とか運営費に若干の補助があるだけであって、あと一切ないのですよ。これは非常に見事です。したがって、私立大学のおかげでGDP比0.5%で済んでいるのです。国立大学だけだったら1.2%どころではない、世界で最も高い比率のファンディングになっているはずですね。
 したがって、国際比較の中でこのままの0.5%でいいのか実証しなければいけない。もう一つは、そこにおける国立大学と私立大学の違いのファンディングのあり方がこれでいいのかを実証しなければいけないのではないかと思うのですね。
 もう一つ大事なことは、いわゆる大都市圏にある大学と非都市圏にある大学との格差ですね。普及率からいうと、日本では金沢だけがちょっと例外です。あと、東京を見るとわかるのですけど、昭和24年に私立大学ができたときに、全部で107校できている。そのうちの半分が東京圏、残りのうちの半分は大阪と京都。残りの4分の1が、四国から金沢から全部含めた全都市に分布しているくらいで、都会にそのときから集中しているのです。
 それがまずいということで、文科省の枠組みで、東京と大阪にはもう作らせないと。その結果、地方へ広がったのです。いわゆる工場等制限法の関係で、東京や大阪など都市の大学はますます有利になるのです。要するに競争相手を作らせない。自由ではないのですから。23区内などは、文化女子大学を最後に一校もできていない。そうすると、東京の大学はますます強くなるのです。国立大学と同じ手法を使われるわけです。
 国立大学は72校できて、それきり今日までの60年間、具体的には特殊な大学を除いて一校も増えていないのです。専ら質の充実だけに努める期間を与えているのですね。そういうファンディングをやってきているわけです。それも基本的に改めないといけないと私は思うのですね。

教員数等の設置基準の弾力的運用の必要性
 もう一つは、大学設置基準の問題です。日本の設置基準は都会に適するようにできていて、非都市部に適するようにできてないのです。私の推定では、人口がほぼ五、60万人いないと、今の設置基準では大学を作ってもうまく成り立たないはずなのです。そうではない地域に作ったら、学生が来ないのは当たり前ですよ。専門教科に分けますから、構造上無理なのです。したがって、無理なことを一生懸命に奨励したから、地方へどんどん作られて、今困っているのは殆ど地方の大学です。早く作られた大学は質の強化ができているのです。その格差は非常に大きいので、これをどうやってファンディングで是正していくかを真剣に考えないといけない。地方はこのままだと、大学が立ちいかなくなり、地方の文化・産業・経済もつぶれるということですから、政府の重大な課題として考えないといけないと思います。
○小出 日本私立大学協会には北海道支部、東北支部、関東地区連絡協議会、中部支部、関西支部、中・四国支部、九州支部があります。各支部から上がっている声は、設置基準の是正にかかわる話です。特に教員数基準については規模の小さい大学の基準を変えていただきたいとか、逆臨定制度の導入とか、多様なメディアの活用時の基準の弾力化など地方からの声が大きくなっています。
○瀧澤 いま教員数基準の弾力化を求める声があるという話がありましたが、これはかなり重要な問題を含んでいます。
 これまで大学行政の上では、教育の質のメルクマールとしては殆ど教員・学生比だけが注目されてきました。しかし、教育の質を問うなら教員の教育担当時間とかクラスサイズ、授業方法その他重要な要素が沢山あるし、まして今「質の時代」になってFD、学習支援、カリキュラム計画など多くの課題が出され認証評価の対象にもなってきています。他方で、これからはパートタイムや留学生など学生も多様化してきて、その面からも教員・学生比を一律の基準で律し得なくなるでしょうから、その意味でも大学の特性に応じた基準の弾力的な適用は、これからの重要な課題になると思います。
○大沼 東京など大都市で成り立つような設置基準には疑問があります。学生が全国から集まって、また卒業生が全国に散ってしまうような地方にある国立大学など、たまたま歴史的にその地域に置いたというだけのことで、ファンディングという点から見ても、それをどうやったら改められるのかを配慮して組み立てないといけない時代に来ているのではないかと思います。
○小出 大学の規模をめぐる問題や、全国配置の問題は中教審では議論が進んでいるのでしょうか?黒田先生、ご様子をお聞かせいただけませんか。
○黒田 中教審では、今のところ全く進んでいません。議論するのが非常に危険なので、避けている状態です。そこを避けて今何をやっているかというと、情報公開の話なのです。教育情報をいかに公開させるか。これは比較可能な情報公開を盛んに言っています。比較可能にするためには、今のファンディング、国公私立大学の授業料格差が平等にならないといけない。
 ですから、私立大学の情報公開は、授業料格差をなくしなさいという話につながってくるのです。大学団体として、その辺をどうアピールしながら要求していくかですが、そうは言いながら教育・研究情報は、各大学は学生を集めるためにもう既にやっておられます。インターネットで公開し、パンフレットも立派なものを作っておられる。大学がどういう教育をしているかは公開されているので、それをまとめて情報公開という方向に持っていってほしいと。「情報提供」は自ら出す方なのですが、公開というと第三者から要求されて公表することになります。その違いがありますが、どちらにも役立ててほしいということなのです。
 それから、先ほどの私立大学の基盤的経費の充実は非常に重要ですが、そこがどんどん削られているから、競争的資金という格好でGPが予算補完してきました。しかし、私も一部、GPの審査をやっていまして、必ずしもこれは悪ではないなと思ったのです。これによって火つけ役ができ、その大学がやりたい教育がやれるようになった。一つの方向に全ての大学を持っていく政策でのGP予算ではないのです。それぞれの大学が、自分が伸ばしたい教育を要求して予算を取る格好になっていますから、昔のように国が方向性を定めて、そこへ誘導する政策は、最近はなくなってきています。新政権になって、これが残るのかどうかわかりませんが、非常に難しいところへ来ています。ですから、地域のバランスを考えるということと、授業料格差をどうするかということ、この辺を解決しなかったら、21世紀型の大学ができ上がらないのだろうと思います。
 先ほどの機能別分化の話で、中教審では七つの方向が出ていますけれども、あれは例示にすぎません。とにかく例示は例示として、それぞれ何を目指す大学にするのかを考えてください、それが機能別分化なのですと。それを促進させる意味で、私立大学の補助金はゾーンが三つに分かれ、地域密着型の大学であったり研究中心の大学であったりするときに、どのゾーンを中心にして予算要求するかということになっています。どのゾーンを選んでも、補助金額はさほど影響が出ないように配分されているようですが、とにかく早く東大型・富士山型からそれぞれの大学の目指す機能が分かれた大学づくり、それによって21世紀型の市民を作ろうということです。
 「21世紀型の市民とは何か」ということで打ち出したのが学士力ですが、学士力は日本だけではなくて、アメリカやヨーロッパでも同じような話があります。イギリスもほとんど同じ項目です。また、産業界からは社会人基礎力がありますね。だから、各国が望んでいることにさほど差はなくて、大学学部といわれる課程を卒業したときには、これくらいは身につけて欲しいということを示しているのです。学士力が最低限の21世紀型市民の能力だと考えていただいてもいいと思います。
○柴 国全体が経済の豊かさから、心の豊かさを持つ社会に変わる、そのための先導役を私立大学が果たすという気概を持ち、それを担える仕組みを作ることが大切で、これは、国に縛られない自由と多様性を持つ私立大学が果たす21世紀の大切な使命ではないでしょうか。
○小出 ありがとうございます。
 いろいろ白熱したご議論をちょうだいしましたが、そろそろまとめをさせていただこうと思います。学校法人自らが、ガバナンスの取組みも一層強めていかなければならない、様々な格差是正についても力強く進めなければいけない、富士山型から八ヶ岳型へという多様な山々が峰を競うような形の大学にしなければいけないということがありました。その根底には、追いつけ追い越せ型から成熟社会の中での人間の価値追求の多様さというか、崇高さというか、そういうものも私立大学の人材養成機能に求めていきたいというお話がたくさん出ていたと思います。
 21世紀の局面に入った私立大学の多様な価値追求、これに対するエールを、先生方からもう一言ずつちょうだいをして区切りにしたいと思いますが、佐藤先生からお願いします。
○佐藤 先ほど申しましたように、あと2年で約300の大学を見させてもらうことになります。ちょうど今半分まで差しかかっています。大学のそれぞれの心構えというか、理事長初め執行部が非常に熱心にやっている大学にもかかわらず、学生が集まらない。先ほどのお話のように、地域の問題などがあります。その大学は十分な教育をしていて、その地域が栄えていれば、そこで十分に活躍できる人材を養成しているのですが、残念ながらその地域に産業がない、仕事がないということで、結局は学生もなかなか集まってこない。それをどうするかですが、もう2年ばかり待ってもらえますと、何かご提言を私大協会にできるかと思います。
○小出 ありがとうございました。

社会に理解されるファンディングへの知恵
 瀧澤先生、大学問題のご専門の見地からいかがでしょうか。
○瀧澤 一番難しい問題として残されているのは、やはりファンディングではないかと思います。「フェアフッティング」がずっと大事な要請になっているわけですから、これをどう考えるかという知恵を出さなければいけないのですね。高等教育に対する公費支出が少ないのは、大沼先生のおっしゃるように、そのことだけを議論しても国民には理解してもらえない。それは、私立大学の数が多いと思われているということですから。
 そのことにどう対応するかですが、フェアフッティングという場合に、私立大学と国立大学に対する公費の支出の格差という視点が中心になっていると思いますが、国の高等教育に対する責任の一つの果たし方として、国立大学を維持していくのはかなり国民も期待している点ではあると思います。私立大学と全く同じにするということは、要するに国立大学をなくすということになるわけですが、それはちょっと考えにくい。国立大学に対する経費支出は国の責任として維持する経費で、私立大学に対しては一定の補助をすることですから、全く性格が違うので、なかなか国民的な理解は得られないのではないかと思います。一方、国民的な理解が得られることは、学費だろうと思うのですね。私立大学に行くと非常に高い、国立大学だと安いという点で、国民の立場からいって、学費負担に格差があることが、国費の格差の問題として一番世間に訴えられる問題だろうと思います。
 ですから、学費の格差を埋めるためにどう考えるか、経常費補助の充実が確実に私立大学の学費の低減につながるようにするにはどうするか、そこに知恵が求められるのではないでしょうか。
○小出 ありがとうございました。
 それでは柴先生お願いします。
○柴 出口のところでかなり私立大学と国立大学は格差がありますが、国民的な視点で考えてみますと、例えば医師の世界でも自治医科大以外は国立大学を出てもどこに行ってもいいということになっています。それは何らかの形で、国の方向性の中で、卒業後ある程度拘束があるようなシステムをつくる必要があるのではないかと思いますし、大多数の国民もそう思っているのではないでしょうか。
 また、地方の公立大学などでも卒業生がその地域に貢献するという主旨が機能していない部分も見受けられます。その都道府県の中で公立大学を受けると、学生も、受験に対しても授業料に対してもメリットがあったはずです。では、それをどうやって還元しているのかというと、必ずしもその辺が明確になっていないのです。そういうところは、フェアではない部分がたくさんあるのだと思うのですね。
 大学教育にとって、そこで教育される者はどのくらいのお金がかかって、そういう人材が社会に出て、その恩恵をどのようにして返すかということを、やはりある程度明確にする必要があるのではないでしょうか。私立大学はそれぞれの特色を出して人材育成をしているわけで、私立大学に対する国の補助も、そのことを認識した上で進めていくべきではないかと思います。ですから、大学教育、大学のファンディングという問題もそのような視点から議論されてしかるべきだと思います。

国・公・私立大学の役割分担の明確化
○小出 大学ファンディングの在り方の具体検討の切り口が見えてきたような気がしますね。黒田先生、いかがでしょうか。
○黒田 今お話がありましたように、国公私の役割分担は少し研究する必要があります。国公私立大学の学生一人当たりの国費投入額の比較をすることも大切であり、そうすることで、如何に国立大学の授業料が安価かが分かります。特に医学系の格差は甚だしく、国費負担の多さは何らかの義務を負うべきとの考えが生まれて当然のことだと思います。また、国立大学はどういう分野を受け持つのか、どういう人材を養成することを受け持つのか、公立大学は地域でどういうことをするのか、ですね。私立大学は自由闊達に何でもできるわけですから、それぞれが機能をきちんと定めて方向性を見せていただく。人のまねをしていればいいという時代はとっくに終わっています。産業界から、「自ら考えて行動する人材を育ててください」とよく言われますが、大学人自身も自ら考えて行動しなければなりません。それは、自らの大学をどういう方向に持っていくかを、主体的にやらなければならないということです。
 それと同時に、私立大学は一つの公教育機関ですので、やはり透明性が大事ですね。社会に対して説明責任があることは自覚してもらわなければならないですし、それにしたがって情報公開もしなければなりません。それを避けているのでは、私立大学は発展しないだろうと思います。財団法人よりももっと高い公益性のある機関としての学校法人だということを再認識していただく必要があります。そうしないと、学校法人という制度そのものが今後必要ないのではないかという議論につながってくるのです。自らが透明性を高めることが必要です。
 ですから、そういうことに対する啓蒙活動は大学団体の仕事だろうと思うのですね。それから、今非常に複雑な案件を要求されてきているのですね。今年はタイムリーに団体として応えて頂きたいなと思います。
○瀧澤 今のお話とダブりますが、私立大学へのファンディングについても国民の理解と支持がなければ充実を期待し得ないわけで、そのためには私立大学の公共性に対する国民の信頼が不可欠です。そして、この信頼を得る道は、公共性にふさわしい経営の規律、誠実性を保証できるようなガバナンスの仕組みや情報公開の形を整え、これを国民に明確に示すことだと思います。公費支出の格差是正を主張するには、私立大学も大きな痛みに耐える覚悟がいるのではないでしょうか。
○小出 たくさんのご注文をいただいて光栄でございます。大沼先生、会長として最後にまとめてくだされば。
○大沼 私も、黒田先生のおっしゃるとおりだと思います。21世紀の大学というのはポイントがあって、これだけ国際化していますから、グローバル化は避けて通れない。したがって、国際的な視野で自分の大学がどうなっているかが大事な視点となります。もう一つは、個々の大学の中で、イノベーションがいろいろな形で起きている。そのイノベーションにどのように取り組んでいけるのかが一つのポイントです。もう一つ大事なのは、最終的に今後クリエイティビティというか、新しいことをどうやって創造して、それを広げていけるかという、その三つの要素を大学自体が持たないと、21世紀型の大学なり高等教育機関ではないと思っています。
 質的な多様さを貫いて基本になるのが、フランス語の「ノーブレス・オブリージュ」です。要するに社会的な特権を与えられた人は、それなりに社会に還元すべき義務があるということです。簡単な例で言いますと、先ほど柴先生がおっしゃられた医学部などを見ると非常によくわかりますが、私立大学では、医学部は非常に高い授業料を取っています。我々の学校と大きな格差があって、社会はそれを認めているわけです。
 ところが国立大学は、小学校の教員養成も医学部も同じ授業料なのですね。それが本当に合理的で適正なのかという問題点があるのです。したがって、国家的とか社会的とかいった視点から絶対的に必要なものは、十分に手当てしてもいいのです。その代わり、社会貢献の義務をきちんと背負わせていく、そういう考え方が確立した上でやっていかないといけませんね。
 そのことは外交とか国防なども全く同じことでして、国防を担う人たちが、普通の私立大学の経済学部出身の商社に勤める人と同じというわけにいかないのです。そのかわり、それなりの義務を背負ってもらうことを一つの中心に置いて、国立大学なり公立大学なり私立大学なりのあり方も、それをキーポイントにしてやっていくとある種の答えが出てくるのではないかなと思います。
 そういうことを、みんなで議論し合って、自分のそれぞれの立場のことはきちんと主張してもらっていいので、そういう方向へ誘導していって、21世紀の教育体系を自ら立ち上げないといけない時代に入ったのではないでしょうか。それを自主的に進めるのが私学団体の非常に大きな役割というようにむしろ考えていくべきなのです。国なり文科省なり、それが何かしてくれるのを待つのではなくて、自らそういう体系を築き上げていって提案していく社会にしていかないといけないのではないか、それが21世紀のこれからの一番重要なポイントだと思います。
○小出 ありがとうございました。
 会長に最後おまとめをいただきました。新年度は、今日先生方からちょうだいしたお話をベースにしながら、私学振興の新展開を図っていくような活動を進めていきたいと考えております。
 先ほど柴先生が公立大学のお話を少しお出しになられましたが、せんだって公立大学協会は60周年、還暦の年を迎えているわけです。全く私も同様の思いを持つのでありますが、国公私立大学の連携、あるいは国公私立大学の役割の明確化、大学の設置形態論や設置者負担主義・受益者負担主義、そして、それにかかわるファンディングの話、そういった私学振興上の共通的で基本課題を新年には大胆に深めていく必要がありますね。もう一つ大切なことは、やはり私立大学は人間形成教育を中心任務として掲げてきたわけです。人間形成教育というときに、日本人の知情意のDNAをしっかり継承し、世界の中で活躍し尊敬される人材育成をしなければなりません。この国には、まだまださまざまな可能性があると思いますし、それのかじ取りをしっかりできるのが私立大学の教育ではないか、その人間形成教育の可能性に大きな期待を抱いているのです。
 ターニングポイントという言葉で始まり、そしてまた最後、ターニングポイントの中での一つの方向性を皆様にお示しをいただきました。寅年の新年は、内外ともに大きな環境変化が続くことでありましょうが、私立大学の役割の重要性に一層の思いをいたし山積する諸課題の解決にむけて駆け抜けてまいりたいと思っております。御礼と御願いを込めて、本日の座談会はこのあたりでお開きにさせていただきます。ありがとうございました。
(おわり)

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