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平成21年10月 第2375号(10月7日)

伊能忠敬測量開始210年
  成功させよう!
  復元伊能大図の全国巡回展 上

2年越しで完全復元
火事で焼失日米仏で「模写図」を発見


不屈の人、伊能に学ぼう

 伊能忠敬の測量開始210年を記念して、来年4月から行われる完全復元の「伊能大図」の全国巡回展。日本私立大学協会(大沼 淳会長)は、主催の伊能忠敬研究会(星埜由尚会長)、(社)日本ウオーキング協会(村山友宏会長)とともに共催する。加盟大学は、主催者側から要請されている展示会場として体育館の使用に、ぜひ協力してほしい。「伊能大図」が60m×35mと巨大なため展示には大学の体育館のような広い会場が必要。地域や学生にとって、不屈の人・伊能忠敬から学ぶものは大きい。巡回展は地域貢献や大学のブランド力アップにもつながる。伊能大図の全国巡回展を成功させよう、の願いをこめて、「伊能大図」をめぐる話題を三回にわたって掲載する。
 (文中敬称略)  

 高齢化社会の現代(いま)、伊能忠敬は「定年名人」としても脚光を浴びている。50歳で隠居して勉強、56歳から17年間、歩いて日本列島を測量して周り、伊能図を作った不屈の頑張りが賞賛されている。
 第一回は、伊能忠敬の人となり、伊能大図が復元されるまでの経緯とエピソードなどをまとめた。
 伊能忠敬の銅像が東京・深川の富岡八幡宮に建立され除幕式が行なわれた。平成13年10月20日のことだった。伊能は深川黒江町(現・門前仲町一丁目)に住み、前後10回の測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮を参拝していた。
 忠敬は、延享2年(1745年)二月十一日、上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町小関)の名主の小関家に生まれた。18歳のとき、下総国佐原村(千葉県香取市)の伊能家に婿養子となり、忠敬と名乗る。
 伊能家は造り酒屋なども営んでいたが、忠敬が養子に入った頃は傾きかけていた。忠敬は米穀売買にも手を染め、江戸深川に薪炭問屋を出すなど家業を拡大。かなりの商才もあった。
 50歳で隠居して江戸に出て、幕府天文方高橋至時に暦学・天文を学ぶ。56歳から蝦夷地への測量をはじめとして、72歳まで16年間かけて日本初の実測による「大日本沿海輿地全図」を完成させた。
 この間、忠敬が歩いた距離はざっと3万5000キロ、歩数にして約4000万歩。50歳にして屹立した伊能の不撓不屈の人生と偉業は、現代人が忘れていた何かを教えているようだ。
 忠敬が作成した日本地図は、総称して「伊能図」と言われる。大きく分類すると「大図」(1/36.000:214枚)、「中図」(1/216.000:8枚)、「小図」(1/432.000:3枚)で、大図一枚の大きさはほぼ畳一枚になる。
 幕府に献上された正本は、明治6年の皇居炎上で焼失、東京大学に保管の伊能家控図も、大正12年の関東大震災で焼失した。これ以来、日本では、「伊能図」を見ることができなくなった。
 ところが、2001年、アメリカ議会図書館で写本207枚が発見された。模写されたものが、第二次世界大戦後アメリカに渡ったと考えられている。これを嚆矢に日本の博物館やフランスなどで次々に副本や模写図が発見された。
 こうした国内外で発見された副本や模写図などを基に、原寸大の「伊能大図」が復元された。手掛けたのは、民間の研究団体「伊能忠敬研究会」。二年越しで縦2m、横1mの塩ビ製パネル255枚にした。
 同研究会名誉代表の渡辺一郎は「日本写真印刷の協力もあって原形に近い形で復元できました。17年かけて地図を作った伊能の根気や執念を学ぶとともに、公開のさいには、地図の上を歩いて伊能の偉業をぜひ体感してほしい」と話す。
 渡辺は、1949年、日本電信電話公社に入社。51歳で退職、ソフト会社などを興す。94年頃から伊能研究に専念。95年、フランスで発見された伊納中図を里帰りさせたのを機に伊能忠敬研究会を結成。伊能関係の著書も多数。
 勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図がモデルだ。独の医学者、シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った米国のペリーが持参。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、測量した地図だと知り、驚愕したといわれている。
 このように伊能図には、胸ときめかすロマンに溢れている。渡辺は「全国巡回展は来年4月から3年がかりで47都道府県の約50カ所で行う予定です。開催地の地方紙やテレビ局も協力を約束しているので、全国規模のイベントになるでしょう」と語る。いまから巡回展開催が待ち遠しい。
 

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