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平成19年4月 第2271号(4月25日)

天災は忘れたころに そのとき我々は何ができるか −1−

神戸学院大学理事長補佐 宮本善弘

 日本私立大学協会(大沼 淳会長)では平成十八年十月十八日から二十日まで、静岡県浜松市において平成十八年度事務局長相当者研修会を開催した。当日は二二五大学から三〇〇余名が参加し、「私立大学の社会的責任とマネジメント」をメインテーマに講演、報告、班別研修等が行われた。本紙ではそれらの中から、「天災は忘れたころに そのとき我々は何ができるか〜阪神・淡路大震災の体験をもとに〜」と題して、宮本善弘神戸学院大学理事長補佐からご講演いただいたものを数回に分けて掲載する。

 一一年前の一九九五年です。私たちは、神戸という街にまさかあんなに大きな地震が来るとは全く予測も何もしておりませんでした。しかし、現実は起こりました。全く予測していないところにあれだけ大きな地震が来たわけですから、私どもはどういう対応をしたら良いか。結局このテーマにございますようにそのとき我々は何ができるかという現実に直面したわけです。
 いまからお話しすることは我々が、現実に体験いたしましたことです。私たちは専門家でも何でもございません。その中での事例です。ただし、本日ここにお集まりの方の中には本学よりももっと大きな被害を受け、また私ども以上の対応をされた大学の方もいらっしゃると思います。もちろん震災の来ないことを願っているわけですが、最近のニュースなどで、専門家の方は南海、東南海、伊豆沖、また関東大震災クラスのものがここ三〇年のうちに六割か七割の確率で来るだろうというふうに予測をしております。万が一震災にあったときに私どもの対応事例が一つでも二つでもみなさんのお役に立てればと思いまして、本日は、お話をさせていただきます。
 1、震災時の状況
 (1)日時
 一九九五年一月十七日、午前五時四六分。ほとんどの方が自宅で被災したというふうに思っております。
 本日私は、学事を中心に説明していきます。一月は、後期定期試験、入学試験、そして卒業式、入学式の受け入れ準備の時期でございます。願書の受け付け、後期定期試験の問題がございます。震災当日の十七日は、大学入試センター試験の翌日でした。
 (2)場所
 被害の最も大きかった地域は阪神地域です。本学は神戸市西区というところにございます。震源地から非常に近い場所ですが、同じ法人の短大は長田区と高校は兵庫区にありますが、長田区と兵庫区に比べれば大学の被害は比較的軽く済みました。学生は約九五〇〇名、その三五%の三三〇〇名が下宿生でそのうちの七割の二〇〇〇名近くは大学周辺におります。自宅通学の六〇〇〇名のうちの三割、一八〇〇名ぐらいが被害の大きかった神戸市内や西宮、宝塚等々に住んでいたということです。
 (3)被災状況
 @(地域 消防庁調べ)
 あれだけの地震となりますと水道、ガス、電気、電話、ライフライン関係や鉄道が止まり都市機能は麻痺します。特に鉄道は、学生や教職員の足です。あのクラスの震災となると、非常にダメージを受けるということになります。各地の震源地についてですが、震度七でした。専門家は、震度七以上あったのではないかと言っております。神戸の中心部がかなり大きな被害を受けたということです。
 A(大学)神戸市の被害状況
 淡路島の震源地から大学は、すぐ近くにあります。今回、特に言いたかったのが火災です。神戸市では、一七六件が起こりました。そのうちの神戸市西区に一件だけ火災が起こりました。私どもの大学でございます。震源地は、大学と目と鼻の先です。東に活断層が走っています。だから、北側に位置しております大学は、震源地のすぐ近くにあっても神戸の中心部に比べれば比較的助かったということです。
 大学構内の被災状況は、図書館、研究室、事務室、全部このような格好で倒れてしまっています。(写真参照)また、火災が発生した現場は薬学部研究室です。この研究室は、実験もなにもしておりませんでした。消防署の調べでは、理系学部では、原因が分からないいろんな状態で、いわゆる薬品等に何かの拍子で火花が散って火災が発生するということでした。理科系の大学の方は、こういうことも十分予測しておく必要があると思います。次は、キャンパスのあちこちに亀裂が起こりました。これは、他の大学も一緒でした。いわゆる被害を受けたところはどこにでも起こったというわけです。
 B教職員
 被害に遭われた教育職員、事務職員、教務職員本人とその家族の方たちは神戸の中心部に住んでおられた人たちなのですが、本学では亡くなられた教職員は、他大学に比べたら少なかったのではないかと思っております。
 C学生
 学生が亡くなられたのは、これも長田区というところで留学生二人が亡くなりました。学生の家族で亡くなられた方が七名。この数字は私どもが知り得た数字だけです。
 2、学内での対応事例
 (1)初期対応、震災から三日間
 災害対策本部を設置したりして、どのような対応をしたかということをご紹介します。
 午前六時、大学警備室から私のところに電話が入りました。大学の薬学部で火災が発生して一一九番通報しているのですが、全然通じませんでした。それはそうです。六〇〇〇何人が亡くなって、何万人も怪我をして火災が一七六件起こっていますから、一一九番通報が通じないのは当然です。
 それでも、たまたま私の自宅には電話が通じました。
 当時、私は、防火管理者をしておりましたので、警備室は防火管理者に連絡を入れるようになっています。私は電話を受けました。私の自宅も被災しておりましたが、もうそれどころではありませんでした。すぐ学長に連絡しました。学長は幸いにも明石と姫路の中間の加古川というところにおりましたので、ほとんど被害という被害を受けておりません。私は学長に電話を入れて、すぐ大学周辺の薬学部の教員を大学に行かせてください、他に類焼したり、爆発したりすると困りますから、早目に行って対応してくださいというお願いをしました。私はすぐ自分の車で約七キロのところにある西消防署に向かいました。その途中に神戸西警察署があるのです。西警察署に寄って、消防署にすぐ連絡してもらうと早いと思って立ち寄りましたら、警察官が一階にほとんど集まって呆然と立ちつくしておりました。神戸学院大学で火災が起きたから消防署に連絡してくれと言ったら、警察無線と消防無線は全く通用しない。あなたが行ったほうが早いということで、助けも何もしてくれませんでした。それで、私は自分の車で消防署に行きました。消防署に行ったら、消防車が六台ぐらい全部出動態勢に入っておりました。初めて見たのですが、灘区、長田区、中央区、兵庫区、須磨区…、とランプが点いていて、真っ赤にクルクル回っていました。私どもの大学のある西区はパイロットランプが全然点いていませんでした。消防司令は神戸の中心部は被害が大変なので、本部からの連絡待ちだと言うのです。連絡待ちだと言っても神戸学院大学が火災なのに、消防車全部が向こうへ出て行かれたらもう大学は丸焼けです。すぐ行ってくれということを言いましたらさすがに三台が大学に出動していただき、おかげで鎮火しました。これは私どもが震災当日最初に対応した出来事です。
 大学に学長が出校してきました。学長は、部屋の状態を見るなり緊急災害対策本部を設置しました。事務局長が本来、副本部長になるのでしょうが、事務局長は東京に帰られていました。そのとき私は、事務局次長をしておりましたので、学長から副本部長をやれということで私が副本部長を務めました。一部の部局長も出校しておりました。
 大学に出て来た者たちで何をするか。応急緊急対応、安否確認、学事計画の変更を全部しないといけません。各種関係機関への対応をどうするかなどについて、話し合っていた最中に理事長が出校してきました。理事長の出校日は、一週間のうち火曜日と金曜日です。当日は、たまたま火曜日で、運転手が迎えに行ったのです。
 理事長の家は東灘区といって神戸の東の端です。大学は西の端です。理事長は神戸市内の被災の状況を自分の目で見ながら大学に来たわけです。ですから、これは当分の間、私は大学に来ることはできないだろうから学長に全権を委譲しますと言われました。同じく帰りに、短大と高校が長田区と兵庫区にあります。こちらにも高校長と短大学長に全権を委譲すると言って理事長はお帰りになりました。事務職員は一二〇名中、約八〇名が出勤しておりました。教員も一部出校しており、最初に被害状況を調査することになりました。(つづく)

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