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平成19年1月 第2257号(1月1日) 2007年新春特別号

南極観測50周年記念
  元気で生き残ったタロとジロとの再会 激しいブリザードで生き別れた福島隊員

大学共同利用機関法人情報・システム研究機構 国立極地研究所特任教授 吉田栄夫

 一九一〇〜一二年、白瀬 矗(しらせ のぶ)は絶大な努力を傾けて個人的な探検隊を組織し、南極に挑んだ。そして一九一二年一月二十八日、ロス棚氷上を南緯八〇度〇五分、西経五六度三七分の地点に達し、一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、帰途に就いた。欧米の趨勢に伍した壮挙であった。それから四〇年余、我が国は国家事業として南極国際共同観測参加に踏み切った。さらにそれから五〇年、二〇〇七〜〇八年の国際極年(第四回国際極年に相当する)を控えて大きな節目を迎えた。この時機にあたり、若干の個人的体験を含め、その歩みを綴ってみたい。

1995年、南極観測参加を閣議決定

 国際学術連合会議(現在の国際科学会議)は、一九五二年、第三回国際極年に相当する国際協力による観測を一九五七〜五八年に行うことを提唱した。そして観測を極地に限らず地球規模に拡大してInternational Geophysical Year(IGY)とすることとし、各国に参加を呼びかけた。我が国はこれを「国際地球観測年」(以下IGY)と訳している。日本学術会議はIGY研究連絡委員会を置いて検討し、これへの参加を決めて政府に予算措置を要望した。ただし、極年を受け継ぐIGYの主要な柱である南極観測参加は当初考慮していなかった。しかし、我が国の観測地域の変更で浮いた予算を利用できる可能性が生まれ、また、朝日新聞社が国民からの募金を含む一大キャンペーンを企画したことも大きな力となって、南極観測への参加が現実のものとなった。一九五五年九月、ブリュッセルでの第二回南極会議で、政府の内々の了解のもと、日本代表の長谷川万吉、永田 武両博士は、我が国の参加希望を表明した。日本学術会議は政府にこのための措置を要望、同年十一月、政府は閣議決定により南極観測参加を決めた。当時の茅 誠司日本学術会議会長のご尽力と松村謙三文部大臣のご理解が大きかったという。敗戦から一〇年、沈滞した空気を吹き飛ばし、国際社会復帰への大きな飛躍となるとして、全国民がこれを歓迎したのであった。
 一九五六年一月から二月にかけて、朝日新聞社は北海道濤沸湖上にプレハブ小屋を設け、寒冷地訓練を主催した。そして三月、乗鞍岳で今度は観測だけではなく、いわゆる設営を担当する人達を含め、七〇名余が参加する国としての雪山訓練が行われ、予備観測とも呼ばれた第一次観測隊編成が始まった。
 課題であった観測砕氷船は、当時、灯台補給船であった「宗谷」を大幅に改装して用いることとした。日本学術会議には南極特別委員会が設けられていたが、経験の乏しい極地での建築、車両、医療、通信、食料などについて各学会に協力を依頼し、それぞれ委員会を設置して準備を進めた。昭和基地の建物は我が国初のプレハブ建築といってよい。隊員も専門外のことに取り組むため、多くの訓練に励んだ。専門分野でも未知の環境の中、いかに成果を挙げるかに腐心した。大学院修士課程在学中に濤沸湖訓練に参加した私も、必死で外国の文献に取り組んだことを想い起こすのである。
 南極観測正式参加決定から一年、一九五六年十一月八日、「宗谷」は観測隊五三名、乗組員七七名を乗せて南極を目指し、東京晴海桟橋を出航した。

「宗谷」東オングル島に昭和基地

 第一次観測隊はケープタウンを最終寄港地として予定のプリンスハラルド海岸に向い、一九五七年一月七日、随伴船「海鷹丸」とともに流氷縁に到着、十七日、リュツォ・ホルム湾の流氷域に進入を開始、二十四日、厚い定着氷(岸から張りつめた一枚氷の海氷)に達して航行困難となり、オングル島(東西二島に分かれていることを発見)までのルート設定を行い、二十九日、西オングル島に上陸、日章旗を掲げて付近一帯を昭和基地と命名した。氷上を雪上車で輸送を行う関係から、東オングル島に基地の建物を建設することとし、懸命な輸送と建設活動の末、昭和基地が開設された。一一名の越冬隊と橇犬を残し、「宗谷」は二月十五日、離岸して故国に向かったが、密群氷でビセット(氷塞)され、ソ連のオビ号の救援を受けた。
 越冬隊は雪上車が十分使用できる状況ではない中、沿岸露岩の地質調査や、犬橇で遠く離れた孤立峰ボツンヌーテンや、東方のプリンスオラフ海岸の調査を行うなど、活躍した。
 本観測と呼ばれた第二次観測隊は、第一次の時とは著しく異なった氷状に遭遇、「宗谷」は一九五七年十二月末から航行が困難になり、そのままビセットされて四〇日間にわたり海氷とともに西へ漂流、一九五八年二月初め、スクリューを折損しながらも自力で脱出し、救援に来航したアメリカの砕氷船バートンアイランド号とともに昭和基地接近を試みたが、氷は厚く第二次越冬隊を残すことに失敗し、第一次越冬隊と昭和基地で生まれた子犬と母犬を辛うじて収容したのみで、結果的に一五頭のカラフト犬を残し、引き揚げることになった。越冬予定で地理部門担当のほか犬橇担当を兼ねていた私は、こうした苦闘の中、南極の自然の素晴らしさと凄さ、敗戦をいかに収拾するかなど多くのことを学んだ。一年後、タロ、ジロ二頭が元気で生き残っていたニュースは世界中を驚かせた。
 第三次観測から大型ヘリコプターによる物資輸送という、ほかではみられなかった作戦を導入した「宗谷」は、以後、第六次観測まで活躍した。この間、昭和基地での気象やオーロラ、地磁気、地震、電離層などの観測が行われ、野外活動では内陸での人工地震探査による氷厚測定、第四次で発見された、やまと山脈の地質・地形調査、航空写真撮影と地上測量による沿岸地形図作製などが行われた。私にとって痛恨の極みであったのは、第四次越冬中、激しいブリザード(強い吹雪)の中、私の仕事を手伝ってくれようとして、ともに屋外に出た同年の福島 紳隊員と離ればなれになり、彼は行方不明となって私のみが基地建物にたどりついて生き残ったことである。奇しくも後年、私が第八次隊で越冬し故国に帰る直前、第九次越冬隊員によって彼の遺体が基地から四・五qほど離れたところで発見され、現地で荼毘に付した遺骨を背負って故国へ戻った。
 国際協力による南極観測は、一九五九年十二月一日にワシントンでIGYの南極観測に参加した一二か国の間で調印された南極条約のもと、IGY以後も継続されていた。しかし、我が国は「宗谷」の老朽化や、もともとIGYのみの観測ということで、恒久的な実施体制がなかったことなどがあって、昭和基地は第六次夏隊の手によって一九六二年二月に閉鎖され、観測は中断のやむなきに到った。

「ふじ」就航で観測活動の広がり

 日本学術会議の要望もあり、一九六二年四月には国立科学博物館に極地学課が置かれ、南極観測で得られた資料の整理・保管・研究などの仕事が開始され、そして、その中心となった第三次、第五次越冬隊長を務めた村山雅美氏らの観測再開への努力が始まった。かくて「宗谷」のほぼ二倍の大きさの新砕氷船「ふじ」が、一九六五年七月に完成した。輸送任務は海上保安庁から海上自衛隊に引き継がれ、「ふじ」は砕氷艦とも呼ばれた。観測再開にあたって、観測は「定常観測」と「研究観測」に区分された。学術上または実用上不可欠の基礎資料を得るためや、恒常的または業務的に行う必要がある観測、国際的に必要とされる観測などを「定常観測」として、気象庁などの機関が担当すること、「研究観測」は学術的に高度の観測を、研究者が自ら現地に赴いて行うプロジェクト研究と位置づけられた。
 一九六五年十一月二十日、第七次観測隊四〇名、乗組員一八二名、報道記者(宗谷時代は隊員として参加していた)や技術者ら六名を乗せて、「ふじ」は晴海埠頭から初の南極航海へと出航した。「宗谷」より航続距離の長い「ふじ」は、文明社会から最も昭和基地までの距離の短いケープタウンを最終寄港地とする必要がなくなり、オーストラリア西岸のフリマントル港を経てリュツォ・ホルム湾に向い、一九六五年十二月三十一日、大型ヘリ一番機を飛ばし、基地再開第一歩を印した。空輸による大方の物資輸送終了ののち、「ふじ」はオングル諸島の南を回り、大陸との間の幅五qほどのオングル海峡から、東オングル島北東岸近く、基地建物群から二qほど離れたところにいわゆる接岸を果たし、南極点を目指す内陸旅行用として開発された大型雪上車の揚陸に成功した。この航跡は以後接岸の航路として引き継がれている。
 続く第八次観測隊は、初めての高床式観測棟の建設など多くの建物を建て、さらに夏の輸送期間が終わる頃、初めて輸送用の大型ヘリを利用しての、沿岸露岩地帯の本格的野外調査に踏み切った。第八次隊の夏期野外調査は、海面より低い湖面をもつ小さな塩湖、見事に発達した隆起汀線の地形などの発見で、地形学・氷河地質学を専攻する私にとって、嬉しい資料の収集をもたらした。同行した交換科学者のアメリカ・カンサス大学の私と専攻を同じくするW・ドルト博士は「ビッグ・ディスカバリー」といって飛び上がって喜んだ。
 越冬では、厳冬の一九六七年八月、三〇〇qほど離れた東隣のソ連マラジョージナヤ基地までの、極めてスリルに富んだ海氷上のトラバース(踏査旅行)、次の第九次隊が企図した極点トラバースのサポートのためのルート設定、燃料デポなどを観測とともに行った、往復二六〇〇qのアメリカ隊プラトー基地までのトラバースなど、「ふじ」就航によってさまざまな活動を行うことができた。
 第九次観測の中心課題は極点トラバースであった。南極観測再開にあたり、当面の大きな目標は、地磁気子午線方向(基地から南東方向)の内陸三〇〇qほどのところに拠点を設置し、超高層物理や気象などの観測を行うこと、ロケット打ち上げによる観測、それに極点旅行であった。第九次越冬隊は一九六八年九月二十八日から翌年二月十五日まで、往復五一八二qの昭和基地から南極点までの踏査に成功した。
 第一次から第九次観測までは、途中、観測中断、「ふじ」の導入による飛躍的発展を挟みながらも、基地観測の充実・確立と野外調査での広域概査の時代であったともいえよう。第一〇次観測から雪氷学分野の「エンダビーランド雪氷研究計画」がスタートし、より計画的なプロジェクト観測の時代となった。
 第一一次観測の夏、数年にわたり準備したロケット観測に成功、第一二次から第一四次まで越冬観測によってロケットによるオーロラ観測が行われた。第一一次越冬隊は昭和基地南東約三〇〇qの海抜高度二二〇〇mの地点に「みずほ観測拠点(現在みずほ基地と呼称)」を設置した。第一四次越冬隊は第一〇次隊が基点から西方のやまと山脈まで二四〇qにわたって測量用標識で作った一六二個の三角鎖網の位置を精密に再測し、内陸氷床の流動観測に成功した。なお、第一〇次隊、第一四次隊では、やまと山脈周辺の裸氷(青氷)地帯でそれぞれ九個と一二個の隕石を採集し、これが後の隕石大量採集の端緒となった。
 しかし、この間、第一一次観測隊輸送の帰途「ふじ」は初めてビセットされ、翌年、第一二次観測では往路ビセット、輸送開始は二月にずれ込み、昭和基地接岸はできなかった。以後、第一九次観測を除き、「ふじ」が昭和基地に接岸することはなかった。
 南極研究と観測の中核機関として、国立極地研究所が第一五次観測隊出発間近の一九七三年九月、国立科学博物館極地研究センターを母体として設立された。第一五次、第一六次観測では環境科学観測という重点項目が、生物学、医学、地球化学分野共同で行われた。地学分野では沿岸、内陸露岩での地質調査が進められるとともに、やまと山脈周辺で多くの隕石が採集され、のちに、これを所蔵する国立極地研究所は世界の隕石研究にとって重要な拠点となった。南極観測は極地研究所の発足とともに新たな段階に入り、第一八次観測から五か年計画を基本的枠組として観測計画が策定されることになり、第一八次から第二二次までを第T期の五か年とし、以後この方式が現在まで踏襲されてきた。ただし、さまざまな分野の国際共同観測計画は五か年計画とは限らず、国際研究計画を五か年計画の中で調整しつつ、観測が行われている。例えば「国際磁気圏観測(IMS)」として第一七次から第一九次までロケット観測などを実施した。第二〇次から第二二次までは気象・雪氷からなる気水圏分野で国際協同の「南極域気水圏研究計画(POLEX―South)」、地学分野で我が国独自の「東南極基盤構造解析計画」が重点項目となった。
 第U期五か年計画では「中層大気国際協同観測計画(MAP)」の一環としての南極域での四か年観測計画、「南極海洋生態学および海洋生物資源に関する生物学的研究(BIOMASS)」の一環としての「南極沿岸生態系における生物生産の基礎的研究」の三か年観測計画、「東クイーンモードランド雪氷・地学研究計画」の七か年計画がスタートした。一九八二年、第二三次観測でいわゆるオゾンホールを世界に先駆けて昭和基地で発見したことは大きな成果であった。第U期五か年計画の半ば、一九八三年十一月、老朽化した「ふじ」に替わり、二倍の大きさ、能力を有する三代目観測砕氷船「しらせ」が就航した。これにより南極観測は大きな飛躍を遂げることとなった。

「しらせ」による『あすか』基地建設

 「しらせ」の貨物輸送量の増大と長い航続距離、砕氷能力の向上は、燃料供給の点と新発電棟の建設により、昭和基地の電力の増加をもたらし、また、基地接岸がほとんど常に期待できるため大型物品の搬入が容易となり、観測設備の高度化、生活環境の抜本的改善が可能となった。かくて、例えば、大型パラボラアンテナが建設されて新たな観測が取り入れられ、女性隊員の越冬も実現した。内陸核心地でのドームふじ基地建設により深層氷床掘削で、一〇〇万年前の氷に迫る氷コアの採取に成功し、地球環境解明に大きな寄与が期待されている。「しらせ」の二正面作戦ともいえる氷海航行の拡大で、昭和基地とは別に年間を通じて活動できる内陸基地「あすか」が建設され、昭和基地から遠く離れた大山地セールロンダーネの地学、生物、気象などの観測ができるようになった。「しらせ」は二度にわたってオーストラリアの運航する観測船のビセットからの救出にも成功している。数年前からは他国との大型および中型航空機の共同運行で、夏隊の別動隊を内陸ドーム基地に直接送り込んで、夏期だけで氷床掘削を行い、また、第W期五か年計画最終年次にあたる第四七次観測隊は、二〇〇五〜〇六年シーズンに昭和基地近傍の大陸氷床上に拠点を建設し、ドイツおよびカナダの航空機によりドイツ隊との共同観測を実施した。二〇〇七〜〇八年の国際極年を目前に大きな発展があったのである。

今後の観測課題

 南極観測の将来像について、国内的にも国際的にも種々論議が交わされている。ここではそのごく一部について管見を述べてみたい。
 最近とくに注目されているのは、環境に関する話題である。南極氷床を掘削して、「環境のタイムカプセル」とも呼ばれる氷コアから過去一〇〇万年にも及ぶ寒暖や地球大気の組成変化の一端、各地の火山活動の記録などが探られている。しかし、環境変動の全体像や原因がすべて明らかになった訳ではない。今後、周辺海域の堆積層変化や地形発達からみた変動などから、例えば、氷コアから捉えられた寒暖の記録と南極氷床の動態がどう関係したのかを明らかにし、それと世界の他の地域の変化との関係を解明したいものである。
 環境問題でみると、南極は世界の陸地で最もクリーンなところである。ここでも汚染がみられるが、その汚染は世界の汚染の最低レベルを示すものとして監視し続ける必要があろう。そして南極氷床は決してすべてが安定的に存在するのではなく、その変動が地球システムという相互連関の中で、他地域に大きな影響を及ぼすと考えられ、その監視、いわゆるモニタリング観測が極めて重要である。
 このほか、太陽活動の気候への影響、陸上や海洋の生態系など、南極ならではの多くの課題が残されている。私が昔遭遇して驚いた六〇qも内陸で発見されるアザラシのミイラさえ謎に包まれている。こうした自然の宝庫で観測に取り組む姿を、青少年に現地で見てもらい、教育に役立てるのもこれからの課題といえよう。そして国際的に重要な我が国の観測と環境保全におけるリーダーシップの堅持、確立を期待したい。

<筆者プロフィール>
 一九五四年東京大学理学部卒業、一九五九年東京大学大学院数物系研究科博士課程中退
 一九七六年より大学共同利用機関国立極地研究所の教授、研究主幹等を務める
 二〇〇一年より立正大学長
 二〇〇四年より財団法人日本極地研究振興会常務理事
 二〇〇六年六月より二〇〇七年まで国立極地研究所特任教授兼任
 南極歴:第二次夏隊、第四次越冬隊、第八次越冬隊、第一六次観測副隊長兼夏隊長、第二〇次観測隊長兼夏隊長、第二二次観測隊長兼越冬隊長、第二七次観測隊長兼夏隊長、アメリカ隊基地、ニュージーランド隊基地、イギリス隊基地などで六回観測に従事

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