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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.17
公正な研究費配分を ――国立偏重から実力主義へ

主幹 喜多村和之

 経済と教育のバブルと低落という試練に見舞われた20世紀も、終わろうとしている。21世紀の日本の復活に国民が熱い期待を寄せているものは、教育の充実と並んで研究がもたらす可能性である。その責任を担うもののひとつは、教育と研究をともに基本的役割とする大学である。
 ところで大学の学生の教育費は、学生納付金と税金によってまかなわれている。国ないし社会の存続・発展にとって若い世代の教育は必要不可欠の重大事だから、これを直接的な受益者である学生や保護者ばかりでなく、間接的な受益者である社会も応分に負担することに異論はないであろう。事実、国公立大学の学費の大半は公費で、私立の教育費の一部が公費でまかなわれている。
 それでは研究は誰が受益者であり、誰が負担すべきであろうか。研究も基本的には学術・文化・科学技術の発展向上によって国や社会に貢献するものと考えれば、教育と同様に国ないし社会によって応分の負担があってしかるべきものであろう。しかし私立大学においては、教員の研究費の多くは、公費や寄付には多くを望めないから、実質的には学生納付金から捻出されているのが実態である。だが学生の教育に要する経費ならともかくも、教員の研究費まで学生納付金によって肩代わりされるのは、筋違いであるし、負担する側も教員の研究のために授業料を納めているわけではないと主張するだろう。
 こうした負担構造は、思うに、「教育と研究との統合一致」(すなわち、よき研究者は同時によき教育者である)という、いわば予定調和的神話に基づいてつくられたものではないか。文部省でも大学でも従来「教育研究費」という用語を用い、教育も研究も混合一体化した観念で捉えてきた。教育と研究は機能的には切り離せない要素があるとはいえ、専門分化の進んだ今日では、教育と研究の一致というような幸福な時代の理念は通用しがたくなってきており、教員の研究費まで学生納付金に押し付けるのは時代錯誤ではないだろうか。
 国の研究費は、科学技術基本計画や政府諸官庁の研究開発費等で膨大な予算が計上されており、文部省の科学研究費補助金の予算額も1,500億円近くになっている。しかしその大半は国立大学に偏重して配分されていると指摘されている。たとえば文部省の科研費は、大学の研究活動を支えている最大の、しかもヒモのつかない学術上最も重要な補助金であるが、竹内 淳氏(早大理工学部助教授)によれば、2000年度に於いて採択件数の上位20位のうち国立大学が19校、私立大学は1校、トップの慶應大でも東大の支給額の約1割、配分額の73%が国立で私立は14%、教員数の国立6万人に対して私立7万6,000人、1学年あたりの学生数では国立10万人に対して私立47万人という点からみても、「国立大学に偏重した人的資源や発想をもとに、科学研究を展開しているといわざるを得ない」と指摘されている(「科学研究費は私立大学軽視だ」朝日新聞、2000年12月5日)。
 最近は文部省の研究助成も次第に私学への配慮を加える傾向にあるが、そもそも官僚は大蔵省(財務省)も含めて、公的な財源は国の機関に集中投資し、私学にはお余り程度にとどめるという、徳川時代からの官尊民卑思想が残存しているのではないか。したがって科研費の配分も、私学に支給率が低いのは研究能力が低い故だと短絡して考える向きがあるのではないか。しかしながら、理工系に限った場合でも、昨年度の科研費の審査員の9割を国立大学の教官で独占しておきながら(前述の竹内氏の調査による)、採択比がそのまま研究能力の差異につながるといえるのだろうか。少なくともこうした不公正な構造そのものを温存しておきながら、質の格差を云々すべきではないだろう。とくに国立大学系の研究者のなかには、科研費の採択率を研究能力の質をはかる評価指標とみなす者が多いが、むしろこうした構造の前提そのものを検討し直すべきではないか。
 私大からの科研費応募数が少ない原因のひとつは、科研費は国の機関優先だという先入観が広まっていて、応募するインセンティブが阻害され、それよりは学内科研に応募した方がましだという諦観が支配的であることなどが悪循環となっている。(なかには研究に国のカネをもらうのは潔しとしないという考えをもつ教授もいる。だからといって学生納付金から研究費を捻出して学生の負担を重くしてもよいということにはなるまい。)
 鳥井弘之氏(日本経済新聞論説委員)も国の研究費支出にこれだけ国私格差があるのは疑問だとするとともに、産業界などから大学が研究を受託する場合、国立は無税扱いなのに私立は収益事業とみなされて税金がかかること、また企業が大学に寄付をする場合にも国立は全額が損金として認められるのに、私立では損金に算入できる額に制限が設けられていることはまことに奇妙だと指摘されている(「国の大学議論、国立偏重」、日本経済新聞、2000年11月20日)。
 ここで筆者は国私格差だけを強調して、国立大学から乏しい研究費をとりあげて、私立大学へまわせなどと「ものとり」を主張しようとするものではない。ただ研究は国家社会に公益をもたらすものとして、国立・私立にかかわりなく優れた研究の可能性をもつところに公正に配分すべきだといっているのである。同時に研究費まで本来教育のための学生納付金から捻出させるようなことをせず、少しでも学生や保護者の負担を軽減させるべきだと主張しているのである。
 私立大学がすべて国立大学に質的に及ばないなどというのは実態に反する。国立大学が基礎研究に優れていることはだれしも認めるところだろうが、応用研究や人文社会科学研究で国際的に認められている私学もあれば、国公立ではできないような個性的研究を推進している私学も少なくない。たとえばアジアの大学ランキングにでている11校の日本の総合大学中5校は私立であり、科学技術系大学では5校の日本の大学中2校は私立、経営系では5校中4校も私立なのである(ASIAWEEK、2000年5月5日)。
 研究費の配分こそは、国立偏重でなくさまざまな私学のもつポテンシャリティを最大限に活用させるよう、実力に応じた公正な資源活用の仕組みを考えるべきである。そのことが究極的に国民の利益につながると思う。いつまでも国立中心主義という明治以来の「国家の須要」的観念にとどまっていると、日本の21世紀の研究の未来はまことに暗いといわざるをえない。

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